明治20年頃の岩見沢の原型といえば、狩野渡し場(いまの狩野橋)からずっと踏切に向かって元町通りがあり、この通りには右手に駅停を含む若干の家があった。もちろん岩見沢のマチの発祥として、この踏切から左手の鉄道沿いにまず岩見沢駅があってその倉庫、勧業課、派出所、三浦医院、警察派出所、戸長役場、幾春別川寄りに岩見沢神社(いまの岩見沢神社の発祥)など、主要なものがあったようである。なお反対側の踏切以西には、わずかにつらなって数えるほどの民家があった。
こういう初期の岩見沢のマチが、やがて元町からその鉄路を越え、というより踏切を越えて当時夕張通りといわれたいまの中央通りにつながり、これを幹線として発展していることは明らかである。つまり発祥当時のマチの原型から飛躍的に大きな舞台を求めていったものといえるのである。明治25年には、現在地に岩見沢駅が移転している。マチの構想は、さらにもっと幅広くなってゆくことはいうまでもない。
ところで、この頃は現在の1条西1丁目あたりが、マチの目抜き通りという様相をみせているのも面白い。というのは、ここに岩見沢の名家である三谷、柿本、山口という家並みが立ち並んだことである。このことは大正15年の大火後はいっそう明らかで、当時の写真で見るとこの三家が石造であり、向いの信金のところにサッポロからマルイボシの支店が、その頃には珍しい高層の建築をみせている。いまにして思えば、ハイカラ過ぎるマチ並で、当時駅前には増築された田村旅館があって、ここにはガス燈が立てられ、風雅な情緒があったと言われている。
さて、この頃からキタキタ、キタキタ、キタワイナ、と歌うようにやってくる辻占いもあらわれ、ちらほら自動車が姿を見せている。昭和の初め、2、3年頃には岩見沢に初めてハイヤー会社ができ、続いて佐竹病院、北原呉服店などが個人でもつようになっている。それは人品いやしからぬ、どこかきりっとしたお婆さんの話である。当時自動車に乗るということは、凡人のできることではなかった。そのお婆さんがどこからともなくすたすたと現れて、1台のクルマを呼びとめた。すると、それっとばかり、そこらの子どもたちが駆けよってきた。わいわいもの珍し気にざわめく子どもたちをいったん乗りかけた件のお婆さんが、きりっと振り返ると、いきなり「無礼者!」とどなった。その声のきびしさに、子どもたちは思わずたじろぐといった一幕である。
子どもたちは一斉にワァーと飛び散っていったが、それにしてもあの鶴の一声は、いったいどこから出てきたのだろう。明治のお婆さんと自動車。たとえ文明開花の中で育ったとはいえ、そのどこかには、まだほのかな貴族的な匂いのするこの逸話は、なかなか忘れ得ないものとして、いまもほほえましく伝えられている
皆さん、『無礼者物語』、いかがでしたか?。
次の民話は彫り物師物語です。お楽しみ下さい。
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