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北村から岩見沢に移り住んだ彫り物師の海老江(えびえ)さんは、もうその頃は70歳にはなっていたようだ。当時の元町、殊に畑1番地、いまの1条東あたりは、人家もまばらで、昼もさびしいところであったという。そんな具合いだから、畑1番地の幾春別川よりには、岩見沢神社の発祥となる小さな神社があり、そこへ行く道が神社通りといわれていて、夜などはもちろん人っ子ひとり立つものがなかったところだそうだ。
彫り物師の海老江さんは、この神社通りの中ほどに住んでいた。その近所であった曽川辰太郎少年は、よくこの海老江さんの家に遊びに行ったと言われている。辰太郎少年は18歳で大工。ともに北村に住んでいたこともあって、年齢こそたいへんな違いだが、かなり心安くたずねたようだ。それに同じ手職である。辰太郎少年にはそんなことが興味をひいたのかも知れない。
海老江老人はいわば職人気質というか、何もしないときは朝から晩までごろごろしている。しかしいったん気が向くとなると、ひと晩寝ずにでもやる。それを案ずる心優しいたったひとりの娘がいた。それも貰いっ子で、老人にはほんとうの子どもがいなかった。連れの婆さんは北村時代に亡くなっていた。この娘は老人にとっては唯一の助け手であった。どこかさびしい影を漂わせていた老人だが、それでもこの娘がそのうつろを満たしてくれた。そんなこんなで、老人は子どもが好きであったらしい。
辰太郎少年もこの老人からいろいろな話を聞いている。その中で当時樺戸集治監にいた名盗五寸釘虎吉の話はいちばん面白かった。虎吉が脱獄したときのことである。樺戸をぬけるには石狩川を渡らねばならぬ。思案のあげく虎吉は名案を思いついた。それがあの長い竹筒をくわえて渡ったという話である。
辰太郎少年は一度老人の名作をこの目でみたいと思った。しかし職人気質のこの老人は、めったに鑿をふるってみせることはなかった。ところがそうしたある日、老人に異様な変化が起こった。あの話好き、子ども好きの老人がぴたりと人を寄せつけなくなった。老人は痩せ始めいっそう無口になって、ひどい孤独感が漂い始めた。しかし、それも、2、3日、ぽつぽつ老人に陽気が返り、しだいに活気をとりもどすと、長い長い苦悶と根気の日が続いた。
あれは確か半年もかかったろうか。ついに大作はできあがった長方形の3つ続きのものである。ある寺の檀家たちが寄進するものということであった。辰太郎少年は期待したが、出来上がったものはまことに荒削りで、わけのわからぬものであった。それから話はずっと後年のことになる。
あの大戦争で、辰太郎さんは出征したが、敗戦後間もなく樺太から引揚げてきた。ところが何かの法要のときとみえる。偶然にも阿弥陀寺本堂の六間欄間で、この彫り物を発見した。その時辰太郎さんはアッと驚きの声をあげたくらいである。直感でそれが海老江老人のあの彫り物とわかったということである。しかしそれにしても何と立派なものであろう。あの時の彫り物の動きがこんなに生きているとは思わなかったという。その彫り物には、紛れもなく海老江老人の製作であるという証拠のような、あの天女の顔があった。じっとそれを見ているといつかあの時の娘、おさきさんにそっくり似てきたというのである。
それでは海老江老人が精魂をこめて彫ったものは、おさきさんへの愛情であったのか。とすると天女はおさき天女であったというわけである。
皆さん、『彫り物師物語』、いかがでしたか?。
次の民話は砂金沢物語です。お楽しみ下さい。
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