現在の万景閣の下の方に、昔は、坊主山と呼んで、ちょうどお碗をふせたような形の山がありました。
標高60メートルぐらいで、この中腹に縄文文化期の遺跡があるのが、昭和35年ごろ発見されたのです。
山のふもとから泥炭層があるのを見ると、この地点は海水域に突出した岬で、4・5千年前の先住民に好適な居住地であったことが想像されます。
今は、山の南斜面が道路建設や宅地造成の盛土用にすっかり削り取られていにしえの面影はありません。
いつごろからか、この山に1人の大男の裸乞食が住みつきました。1年中裸で、ふんどし代わりに何かの動物の皮を腰廻りに当てているだけでターザンスタイルです。
玄関からスーッと入って来てかんづめの空缶を差し出します。ご飯やダンゴを貰ってうまそうに食べると、また、何も言わずに出て行きます。最初のうちは体も大きいし、寒中でもはだしで来るものですから気味悪く、みんな敬遠していました。
けれども、絶対人に害を与えたり、物を盗んだりせず、何を話しかけてもニコニコ笑っているの です。
この坊主山の裏側に昔競馬場がありました。開拓者として内地から移住した時は、道庁から1戸に1頭の馬が貸与されたものですから、沢山の馬が飼われています。
たいして娯楽の無かった頃のこと、馬の競走を楽しんで、日頃の疲れを忘れたものです。
年々盛況になり、その日を指折り数えて待つようになりました。
ある年の競馬が前々日から降り続いた雨で馬場がぬかり、開催不可能になりました。
しかし、近隣の村々からも三々五々集まって来てしまったのです。競馬は後日することにして、当日は、小さな場所で用が足りる角力(すもう)をすることに急に話がまとまり、早速土俵が用意されました。
子どもも、女も、老人達も大勢集まって、名勝負は拍手喝采をおくります。
見物人の中に、かの裸の乞食が来ていたのです。
裸の力士の中に混じっていたものですから、気がつくのがおくれました。誰かが馬の腹帯をまわしとして巻きつけ、早速土俵に引きあげました。
さすが6尺近い体格の持ち主だけに、最初は圧倒的な強さを見せて、何人も押し出してしまいました。そのうち、彼の弱点を見抜きました。投げ技ができないのです。下にもぐり込んでまわしを引けばなんなく投げることができるものですから、みんな大笑いです。
特に子ども達は喜びました。普段、家で駄々をこねたり、泣きわめくと決まって「ほれ、裸の乞食がくるよ。」と恐い代名詞でおどかされていたものでんがすっかり晴れた思いです。
この乞食の出現をくわしくは誰も知らない。顔のほりの深さ、ふさふさとのびた胸毛からみて、アイヌの末裔であることが想像されました。
そして、彼の口から言語が出ないのは唖ではなく、和人語が話せないからだとも言われました。更に、この想像を決定したのは、彼の住居の型です。4本のえぞ松の立木を利用し、擂鉢型の低い屋根と3坪程の壁を全部笹の葉で葺いてあったからです。
人のうわさによると、旭川地方のアイヌのコタンから幌内炭鉱へ連れてこられたが、元来のノロマ、採掘の仕事に耐えられず、飯場の入浴中に蒸発して来たのではないかと言う説が1番信憑性があるように思えました。
それからしばらくして、彼の姿を見かけなくなりました。大きな体をゆすりゆすり歩く動作に角力大会の愛嬌振りを見い出していただけに、淋しい気がするのです。
彼のことをみんなが忘れようとしている矢先、第一次世界大戦が始まったものですから、役場の方で兵隊として徴用したのではないかとのうわさもたちましたが、さだかではないのです。
皆さん、『裸乞食物語』いかがでしたか?。
次の民話は茶店物語です。お楽しみ下さい。
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