志文の地名は、アイヌ語のシュプンベツ(うぐいのいる川)からだといわれております。
幌向川をはじめ、この付近の細流に、うぐいが多数生息していたのでしょう。
この志文は1辺がほぼ2キロ程の正三角形の形で区画されており、昔はまん中を北南に走る夕張道路と東西に通じる万字道路が、今でいう1級国道として、交通の要路となっていました。
夕張通りは岩見沢の元町を起点とし、神社をこえて教大・霊園、そして直線に耕成神社の方向へ。一方の万字道路は、のちに軽便馬車鉄道がしかれました。
この2本の路が交差する十字路付近は人家も集まり、終日人馬の往来もはげしく、かなりのにぎわいを見せたものです。
茶店も3軒たち並び、馬車追いたちの一服のかっこうの場所でした。
4尺も5尺もある丸太を満載したトロッコを、何10頭もの馬の列が続く景観はみごとなものでした。
10年程そんなにぎわいのあった街道も、夕張道路は1キロ程西の現在地に移動し、又、万字線は鉄道が布設されて、志文万字間に列車が走るようになると、とたんに残った茶店も、2人の老夫婦が雑貨品やタバコを売りながら細々とやっておりました。
ある冬のとてもしばれる夕方です。
「ドンドン」と表の戸をたたく音がします。あいにく、じいさんは風邪で早く店をしまった後だったのです。
ばあさんが出ていくと、
「渡場の宿までなんぼあるかね」
戸越しに男の太い声がします。戸を開けると赤い囚人服を着た10数名の一行です。
「もうすぐだ。1里までないからのう…」
老婆の声はふるえておりました。
「ありがとう」
看守の声が終わらないうちに、一団は動きだしました。
「ガチャガチャ」
手錠の鎖の音が異様にひびきます。ばあさんは、しばらく戸を閉めず、男達の後姿を見えなくなるまで見送っていました。
静寂の中に小さく
「シャリシャリシャリ……」
とツマゴのひげの先に、こおりついた雪球のぶつかり合う音がこだまして聞こえるのです。
これは万字炭鉱の発掘に、市来知集治監から、囚人を連れて行くところだったのです。
その夜からばあさんは、急に変な行動をするようになりました。
頭がおかしくなったのです。そして、
「あの中におらの息子がおった……。」
とくり返して言うのです。
1人息子は、徴兵検査前に、すでに結核で亡くなっていたのですが、夕暮の黄色の中に映った1人の囚人が死んだ息子の顔と瓜二つだったのです。
老婆が岩見沢の脳病院から抜けだしたのは、雪どけが急にすすみ、黒土の匂いがかげろうとなっている頃でした。
ばあさんは、とうとう家の近くの増水した幌向川へ身をなげてしまいました。
1人ぼっちになったおじいさんも、1年後には亡くなり、1軒の茶店は交通の衰退を象徴するかのように、長い間無人の廃墟となっていたのです。
皆さん、『茶店物語』いかがでしたか?。
次の民話はおやじ(熊)物語です。お楽しみ下さい。
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