冷水墓地物語


開拓が進むにつれて、この地に定着する人が増えて来ました。生者必滅のならいで、不幸がつきものですから、この死者を葬る墓地の必要を感じるようになりました。有志が相談し、候補地として目をつけたのが、冷水の国有林です。

早速代表2人が戸長役場を通じ国有林貸与願を道庁に陳情し、共同墓地として使用することになりました。

その頃は、土葬もたまたまありましたが、ほとんどは野天焼きでしたから、野辺のおくりがすむと手伝いの近所の人は、乾いた薪を持って墓地へ行き、ごばんの形に高く積み上げ、棺をその上に寝かせ、石油をかけて火をつけます。

薪の燃え方によって、死人が棺からころがって落ちたり、風の強い時は、燃料がすぐ無くなってしまうなど、とても大変です。

それに長い時間かかるものですから、気の強い男達が酒をちびちび飲みながら番をするです。

その後、火葬場が建てられ、レンガの釜で焼くようになりましたが、こんな話があります。

この火葬場の建築にとても熱心だった発起人の伍太郎、兵蔵の二翁は、人の世話も進んでする信望の厚い人でしたので、住民からの寄附もとんとん拍子に集まり、意外に早く完成することが出来ました。

ところが、落成して間も無くこの筆頭者の伍太郎が急死し、第一号として火炉を使用することになったのです。それから何日か経って、今度は二番手に兵蔵が亡くなってしまいました。二人共かなり年をとっていたのと、一つの事業を成した安堵で死期を早め、偶然に続いたのだ、とも思えるのですが、まか不思議なこととしてしばらく住民の尾ひれをつけた怪談として残っていたということです。

今のように専門の墓地や火葬場の管理人が居たのではありませんから、不幸の無い年はめったに人の訪れる事も少なく、年に一度のお盆にお墓参りを兼ねて掃除をしておきます。

或る年の夏。この墓地に馬の草を刈りに行った次吉は、火葬場の中に人の気配を感じ、中をのぞいてみました。釜のところで、うずくまっている者がおります。

「誰だ。」

次吉は鎌を身構えて、戸を開けました。全身真っ黒で目だけ異様に光らせたその男は、声の方を見据えながら少し後ずさりしたようでしたが、次吉の野良着姿を確認したのか、「ハブ、ハブ」(ご飯)とうめく様にいって手を口のところへ持って行きました。

次吉には、ぴんときました。朝鮮人の炭鉱労働者が逃げて来て、空腹で動けず半死半生でかくれていたのです。次吉は逃亡者に対する監視人の仕打ちのおそろしさを一ケ月前の例で充分た知っていましたから、暗くなるのを待って家へ連れて帰りました。

女房や子供にも因果を含めて内密にかくまうことにしました。口もきけない程に弱っていた男も、毎日一升ものご飯を平らげると、徐々に元気を回復して、片言の日本語と身振りで次のようなことが判ってきました。

朝鮮の国から半ば強制的に北海道に連れてこられた何千人の労働者は、全部炭鉱に向けられました。それだけ石炭の必要な時にあったのです。

彼は万字の山に来たが、仲間は全部危険な切羽にもぐらされました。朝は三時から夜七時迄、食事は麦めしで、生味噌がおかず。給料は一日一円三十銭、食費は七十銭で足袋や下着が、四、五日しかもたないから、働くだけ借金が増えます。

小さい一室に3人入れられ錠がかけられ、外にピストルとこん棒を持った見張りが、何人も交替で立っています。少しでも疲れた様子をするとスコップでなぐり活を入れられます。

栄養失調と重労働で死人が続出しました。逃げて見つかれば半殺しに合います。だが彼は仲間五人と覚悟を決めて山づたいに逃げ出したが、監視がきびしく、朝日のあたりでばらばらになってしまった………。とのことでした。

一週間程経って、日高で木工場をやっている次吉の姉から返事の手紙がきました。一人や二人なら是非すぐにでも使いたいとのことです。

真面目そうなその若者を遠くへ逃がしてやろうと、問い合わせのハガキを出しておいたのです。

逃亡者をさがす監視達が自転車で山路を往来するようになりましたから、一刻の猶予も許されません。

次吉は馬車にわらを積んで彼をもぐらせました。

闇の中から「アリガト、アリガト」とかすかにもれていました。



現在の市の霊園は、南西に傾くゆるやかな丘陵地に、落葉林と採草地に囲まれた牧歌的な風情をただよわせておりすが、この一番奥のくぼんだところに昔の墓地があり、火葬場もありました。





皆さん、『冷水墓地物語』いかがでしたか?。
次の民話は野鍛冶物語です。お楽しみ下さい。

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