野鍛冶物語


重罪人の流刑の島のイメージが少しずつ払拭され、本道の開拓に本州各県から新天地を求めて多種多様の人々が移住して来ました。

帯刀を許されていた刀剣師(刀かじ)の義八郎一家がこの地に来て永住と心に決めた頃は、かなり開墾が進み、中心地では雑多な職業が自然に秩序ある配分で、こじんまりと市街を形成していました。

明治維新前迄は武士は必ず帯刀し、農商工の職業の者も地位によって一刀をたずさえる事が出来ましたが、明治九年廃刀令によって軍人警官以外は、全面禁止になりましたから、先祖代々刀かじを天職としていた義八郎も転向せざるを得ません。

あつかう品ももっぱら農具にしぼり、野かじとなってその技術を生かそうと志文に落ち着いたのです。

その頃、かじで作る農耕用具は人の手に持って使う物がほとんとです。

志文には野かじが2軒ありましたが、これ等農具の作製や修理で大忙しです。

義八郎も弟子を4、5人使い、朝の暗いうちから真っ赤に焼いた鉄を打ち合います。

「ホウー」

と一人が大ハンマーで打てば、

「ハウー」

と持ち手が小ハンマーで気合をかけます。

「ホウー」「ハウ」

「ホウ」「ハウ」

の掛声と

「トーン」「テーン」

「トーン」「テーン」

の鉄を打つ音で終日活気ある響きがこだまします。ここで作った鍬や鎌は、さすが昔とった何とやらで切れ味も良くひっぱり凧でした。

その後、欧米の馬にひかすプラオ、ハローなどが入って来ましたが、これら大農具をこの地方に合うように改良する仕事も大変でした。具合よいように見えても、いざ使ってみるとあちこち不都合な面も出て来ます。農家の人と相談しながら実際に自分も使って納得いく様作り替えます。

この地の開拓の祖辻村直四郎が、進取の気概をもってアメリカへ渡り、欧米農業を五ケ年に亘り研修し、帰道した時に“突きホー”という手軽な除草農具を持って来ました。

うすい直方形の鉄板の前後に刀をつけ、それに細長い柄をつけたものです。

作物と作物のうねの中に生えている雑草を、その突きホーで押したり、引いたりして切っていきます。

この農具を義八郎と相談し、この地方の土質に合ったように改良することにしました。

更に両端に角をつけて、切った草をこれに引っかけて根から土を払って枯れやすいように工夫し、新案特許をとって「赤鼻天狗印」の商標をつけ“辻村突きホー”として売り出すことになりました。

麦やえん麦の草を取るにはもってこいで、今までの何倍の能率が上がりますから、農家が押しかけうばい合いの状態です。

道内はもとより内地からも注文が殺到し、製造が間に合いません。

冬場の少し暇な時は、この突きホーを大量に作ってペンキをぬって長もちの中に並べて置きますが、春になるとたちまち無くなってしまいました。

義八郎は刀剣師として銘をもつほどの地位にあった人ですから学問もあり、晩年詠んだ次の歌からもその気骨振りが想像されます。

日に3度手に採る箸の

束の間も我忘れめや 大和魂

君嶋の草木は風に

とばされて

おちる木の葉は大嶋の土



野かじとは農具を主として作るところです。今の農機具工場です。





皆さん、『野鍛冶物語』、いかがでしたか?。
次の民話は追い松物語です。お楽しみ下さい。

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