ずい分昔のお話です。その頃までは志文の方に行くには今の神社の高台から、スポーツセンターの公園になっている低い所まで下りてポントネ川(今の東利根別川)の土橋を渡り、教育大学の高台へ登って行き、明治池の横を通って行くのでした。
その頃は、この道を夕張街道と呼んでいました。それはこの道が夕張まで通っていたからです。
ある日のことでした。
村長さんをはじめ、村の主だった人々が集まり、立派な学校を建てる相談をしました。その頃から岩見沢の人々は是非立派な学校で子どもたちを勉強させたいと願っていたのです。
みんなの願いがかなって学校を建てることになりました。人々は、土地やお金を寄附し、その上、学校の工事を手伝いました。そのお蔭で立派な学校ができました。人々は大層喜んでお祝いをしました。
しかし、学校だけ立派でも学校に通う道路が悪くては困ります。又、道のないためにずっと遠回りをする子どもがいてはかわいそうだと、今度は道路を新しく造ることになりました。村の人々は、道路工事に精を出しました。そして、今の国道234号線を造ったのです。
新しく志文まで通ずる道路ですので、志文新道と呼ばれました。
この新道が出来て大層便利になりました。
トネベツ川には新しい立派な丸太土橋が架けられました。そして、農学校の中を通ってトネベツ川に流れるポントネ川にも橋が架けられることになりました。人々はこの橋は是非自分達だけの力で架けたいものだと相談しました。
話が決まり、山から良い木を切り出し、厚い板を引き、太い丸太を何本も桁に使い、厚い板を並べ、かい折り釘という太い釘を打ちつけ、丈夫な、それはそれは立派な板橋を造りました。その頃の橋は、何本もの丸太を並べ、その上に土をかぶせた土橋しかありませんでしたから、板を敷いた橋はここだけでした。
村人達は、この橋に『板橋』と名前を付けました。
あまりに立派に出来たので、この橋を渡る時に板橋をよごさないようにと、下駄や草履を脱いで渡る人が多かったといいます。
この板橋の上を何千人もの人、何千台もの馬車が通りました。靴のまま通る人は『土足ですみません。』と断り、馬車が通る時は馬車追が『それ板橋さまだ。大事に渡れよ。』と馬に声をかけたといわれていま
そのせいかどんな水害の時でも、この橋だけは流れることがなかったといいます。
幾度か橋は架け替えられました。今では、鉄筋コンクリートの立派な橋になりました。10トンも15トンもある大型トラックが通るようになりました。しかし、橋の名前は、昔付けられた通り今も板橋と呼ばれています。
皆さん、『板橋さま』いかがでしたか?。
次の民話は峠の水場です。お楽しみ下さい。
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