イッチャン物語


イッチャンという乞食が古くから岩見沢にいた。これほど市民に親しまれ、愛され、そしていまだに忘れられずにいる乞食は珍しいだろう。現在生きておれば90歳であろう。市民はイッチャンのことを、ああ、あのイッチャンか、イッチャンはね、よい家の出で、学校は一中を出ているんだよ。という、一中といえば当時東大ぐらいの値打ちがある本道唯一の名門校であるといわれている。

このことについて、イッチャンと同年の生まれでかかわりの深い広瀬元吉さんが、くわしく知っている。しかし広瀬さんは、イッチャンはよい家の出だが、一中は出ていなかったといっている。わたしと同じ学校に通い尋常科4年は出ている。イッチャンの親戚の子でサッポロの学校に行ったのはいるが、イッチャンはそれきりで、どこの学校にもいっていないという。親戚の子との間違いであろう。

広瀬さんは現在もお元気だが、90歳のお年寄りだから、あるいは記憶の誤りはあろうが、このことはそうはっきりいっている。よい家の出に間違いはない。岩見沢では有名な旧家の一族であろう。一中を出たというのはイッチャンを愛する市民のフイクションに違いない。イッチャンをそんな風に美化したかった市民の夢にしか過ぎなかったのだろう。それにしても、1人としてイッチャンを悪くいうものはないのだから不思議である。

ところでイッチャンが乞食を始めたのは、30代からではなかったかと広瀬さんはいう。それもせっかく一流商店の大金持ちの家からお嫁さんをもらい、商売の独立もできたのに、それからまもなく、イッチャンの放浪無頼の生活が始まり、いつか乞食にまで転落しいったのである。そんなよい家の娘さんをもらいながら、幸福な前途に満ちていたはずなのに、なぜイッチャンは転落していったのだろうか。ここがひとつの謎である。本来ならば、何ひとつ不平不満もないはずである。そこには、何があったのだろうか。

夫婦の仲は他人のけっしてあずかり知らぬことである。ただ強いていえば、こんなことは言えよう。嫁は勝気でしゃんとした気性のひとであったとか。イッチャンはどちらかというと、善良で小心なところがあったと広瀬さんはいう。だが、それがどんな誤算を招くことになったかは、第三者の知るところではない。イッチャンはふいと家を出てしまった。いまの言葉では蒸発ということになろう。そうして他国でどんな生活をしてきたか、再び岩見沢にあらわれた時は、もうはた目も憚るみじめな姿になってきた。

それにしても余程運の悪い男だったんだね。うまくなければ別れればよいことなのに、両方の古いしきたりに阻まれて、イッチャン自身がはみ出してしまったのだから。そんなふうに広瀬さんはいう。そのイッチャンは、戦後もしばらく姿を見せていたのだから、その頃はもう70歳は過ぎていたのではなかったろうか。綿のはみ出した丹前を着て頭から毛布をすっぽりかぶり、以外とふっくらした優しい顔をして、けっして何かをくれとは言わなかった。ただニコニコと家の前に立っていた。あらイッチャンだ、と驚いて、物を上げていたようである。

きょうはイッチャンが見えないね。という言葉がきかれた。お金はもらわず、もらえば町内のお世話役だった笹田勘太郎さんという人にあずけて、必要な時に何かを買ってもらっていたというが。さてイッチャンの人気には移り変わりはなかった。そうして、戦後ようやく物が豊かになりかけた頃、イッチャンの姿は、市民の目の前から消え去っていった。イッチャンが住んでいたという通称イッチャン橋のそばの小屋は、もちろんいまはなくそのイッチャン橋がいまでは4条近代橋として姿を変えている。





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