開拓が始まってから10年、20年とたちました。
しかし、まだまだ食事などは今とちがってまずしいものだったのです。とても、お米だけのご飯などは、めったに食べることがありませんでした。
よほど暮らしのよい家でも、お米と麦が半々ぐらい(お米が5分、麦が5分の割合)、菜めしといって、お米と麦に大根の葉などをきざんで入れたものや、いもの雑炊などでした。それだけにどこの家でも、秋になると、カボチャがごはんのかわりだったのです。
朝もカボチャ、昼もカボチャ、そして3時のおやつもカボチャでした。
毎日毎日カボチャを食べているうちに、誰彼の区別なく、みんなが少しずつ黄色くなってきました。その中に、下着につく汗にも色がつくのか、下着もだんだん黄色くなってくるのでした。
ある日、子どもたちが集まって、誰が1番黄色くなったか比べてみることになりました。
「太郎ちゃんが黄色い。」
「いや、次郎ちゃんの方が黄色い。」
「千代ちゃんが1番だ。」
などといいながら比べることになりました。
ぐっと手をにぎりしめて、ゆっくりとひらくと、その黄色さがよくわかるので、みんなでくらべてみました。
「みんな黄色いや。でも次郎ちゃんのは黄色でなく黒いや。」
というと、次郎ちゃんは、ぺっぺっと手につばをして、ごしごしと着物にこすると又くらべてみました。
しかし、誰の手のひらも黄色なので順番がつきません。
「今年はみんな同じくらいカボチャを食べたんだね。」
ということになりました。
そんな遊びをしているうちに、山ぶどうも、こくわの実もなくなり、木の葉もすっかり落ちて、チラチラと雪が降る季節になってきました。
その頃になると、もうどこの家にもカボチャがなくなりました。
今度は「ごしょいも」がご飯のかわりになりました。朝も、昼も、夜も「ごしょいも」ばかりでした。
夜なべをしておなかがすくと炉の中で焼いていたいもをほり出して食べるのでした。こうして「ごしょいも」を食べているうちに、黄色くなった肌も、手のひらも、次第次第に色がうすくなってくるのです。
そして雪とける頃は、村の人々はみんな普通の肌の色よりも、もっともっと白くきれいな肌になるのでした。
開拓の頃は、こうしたことが毎年毎年つづきました。
大人も子どもも、男も、女も、秋には」カボチャを食べて黄色くなり、春にはごしょいもを食べて白くなるのでした。
そして秋にカボチャを食べて黄色くなると、誰いうとなく「カボチャ黄疸」になったというようになりました。
本当の黄疸なら病気ですけれど、これは病気でない「カボチャ黄疸」といわれ、開拓当時から長い間みんなが毎年かかった黄疸といわれています。
参考
北海道のカボチャは明治初期にアメリカから輸入されたデリシャスカボチャ(俗にいうカステラカボチャ)と、ハッパードカボチャ(俗にいうマサカリカボチャ、又はナタカボチャといわれ皮が厚くてかたいのでマサカリやナタでないと割れないのでこの名がある。)の二つの系統が主であったようです。
今は今年7月に亡くなられた中村嘉寿太先生が育種したクリカボチャが主となっているようです。
皆さん、『カボチャ黄疸』いかがでしたか?。
次の民話はねているゆびです。お楽しみ下さい。
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