北海道がこんなにひらけたのは本州から来た開拓移住の人々によってひらかれたのです。
開拓当時の官営移住者(開拓使が募集して申し出のあった中からきめた移住者のこと)には、開拓使が一戸について五千坪(約1、7ヘクタール)の土地を開墾するよう貸付されました。又開拓を願い出た農場にも同じように、それぞれ開墾の期限を定めて土地の貸付がおこなわれました。
そのどちらも、期限までに開墾されていれば、検査をうけてその土地は開墾した人や農場の所有地になるのでした。
今の荒地おこし(新地おこし)とちがって、その当時は二抱(ふたかかえ)も三抱(みかかえ)もある太い大きな原始林におおわれ、丈が10寸(3メートル)も15尺(4.5メートル)もある竹のような熊笹がビッシリとおい茂っていましたから、一歩その中に入ると、空を見ようと思って上をむいても、木の枝や熊笹が茂っていて空を見ることが出来ません。又、足もとには何10年前に倒れたか知られないくちた木や野草がつみ重なっていて、どれ程掘ったら本当の土が出るのかわからないような、それはそれはひどい原始林でした。
このようなひどい原始林を鋸と鐇(たつき。はびろのような大きな手おの)山刃(なた)や鎌、鍬で切り開いて畑にするのですから、その苦労はとてもとても考えられない程のなんぎなものでした。
移住してきた人たちは、朝はまだ暗いうちに起きて僅かばかり切り開いて出来た畑の手入れをし、あかるくなると今度は大きな木を切り倒したり、熊笹を刈ったり、切り倒した木は幾つにも切り割って、
「やっこらさ。やっこらさ。」
とどうやらうごかして、何日も何日も天日(てんぴ)にあててかわかしてから火をつけてもやすのでした。
火をつけると、それはそれはすざまじいばかりの勢いでもえてゆくのです。ゴウ、ゴウとものすごい音をたてて、2日も3日ももえ続けてゆくのでした。
人々は夕食が終わっても、月の光をたよりになおも働くのでした。
クタクタにつかれて家にもどって、あとはもうただ寝るだけです。本当に着いたままいろりのそばにごろりと横になって寝てしまうだけでした。
そんな毎日が、雨が降っても休まずに開墾の作業が続けられたのです。
それはそれは、大変な作業の毎日だったのです。男も女も、子どもたちも、みんなが一生懸命に働いたお陰で今は立派な畑や水田となり、みんなが住む家々が建つやしきとなったのですが、その当時は、木を切ったり、熊笹を刈ったりしたあと、木の根を掘ったりおこしたり、熊笹の根を掘り出したりして、どうやら畑にし、そのほかに道ぶしんの手伝やら、排水溝をほって水の流れをよくしたり、時には橋をかけることもありました。そんなに働くのでからだ中が痛くなる毎日でした。
夜寝てもゆっくりやすまないうちに朝になりました。疲れた体をむりに起こして、さて畑に出て働こうと思っても、手の指がよく動きません。
「ああ、今朝もまだゆびこがねとるのか。おらが起きているだぞ。こら。ゆびこもおきろよ。といい乍ら親ゆびから人指しゆび、中ゆび、薬ゆび、そして小ゆびの順に一本一本動かすと、やっと右と左の指が動くようになったものだよ。」とおばあさんが話をしてくれました。「ほれ、みてごらんなあー。この指こがねていたもんだよ。今日は起きているがなあー。」おばあさんの指は、ふしぶしが太くて、のばしてもまっすぐにならず内側にまがって、がさがさになっていました。
開拓当時の人々は、毎日、毎日、ねているゆびをおこして働いたのだそうです。
皆さん、『ねているゆび』いかがでしたか?。
次の民話は突きホー物語です。お楽しみ下さい。
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