明治も中頃になると岩見沢も大層開拓が進み、この地方の中心となり、教育をはじめ農業、商業が盛んなまちになってきました。
農家では耕作に使う農機具を使いやすく作り替えたり、新しい農具を考えたりしました。こうした農具はみんな、ど鍛冶と農家の人が相談して色々と工夫を重ねてつくったものでした。時に便利なように思ってつくっても、いざ使ってみるとかえって不便なものもありました。軽くして使い易く、能率がよくなるようにすると故障がおきやすい欠点があったりしました。丈夫にすると重くてとても使用ができなかったり、アメリカ式のプラオでは当時の馬では力がよわくて耕作に不自由でしたので、プラオもハローも小形につくりかえたり、泥炭地用と真土用(まつちよう)に分けて使うようにふた通りにつくりかえたりしたものです。
その中で「突きホー」という非常に簡単なつくりで畑の除草具を辻村直四郎という人がアメリカから持ってきました。棒の先に平らな横に長四角な鉄板がつけてありました。前の方に刃がついていて押してやれば前の方の刃で草が切り取れるのです。
直四郎は押しながら畑を歩いて使っていると、手を振るように押したり引いたりすることに気がつきました。そこで後ろの方にも刃をつけることを考えました。又、切られた草がそのまま畑に残るので後で熊手かホークで集めなければなりません。草を切った時に倒れてくれることに気がついて鉄板の上に鬼の角のような二本の鉄棒を立てて、切り倒した雑草をそれに引っかけることを考えました。
こうして新しい突きホーを、君島義八郎という、ど鍛冶に相談したのです。
君島義八郎という人はど鍛冶をしていましたが、もとは藤原義次という銘を持っている刀鍛冶でしたから、直四郎の話を聞くと更に両側にも刃をつけることがよいであろうといいました。又、刃をつけるのだから少しまるみをつけることと、地面につく方は反対に少しそらすと一層切り味がよいことなどを考えました。
そして刃と同じような鋭い刃のつくように鉄を錬え、前後左右に刃をつけ、角を二本立てた「突きホー」を作ったのです。
使ってみると誠に気持ちよく雑草が切れるのです。
そして切り倒された雑草が二本のつめに引っかかって落ちません。切れない雑草もこの二本のつめにひっかかって根こそぎとれることもありました。
二人は手を打って喜びました。
そしてこの農具をたくさんつくって多くの人に、らくに仕事をしてもらおうではないか。ということになりました。
それからはこの突きホーのことを「辻村突きホー」と呼び、志文の君島農具工場のものが最上のものといわれて、多くの農家で使われるようになりました。
こんな簡単な農具が出来るまでにもみんなが色々と工夫もし苦労もされたものでした。
参考
辻村直四郎さんは志文開拓の父といわれる人で、辻村農場を開き、又、志文という地名も辻村さんがつけられました。
町会議員のほか農会長など多くの公職につかれ岩見沢のためにつくされました。
ご当主太郎さんも公職のほか高等学校校長などをされ今志文町にお住まいです。
君島義八郎さんは、志文で農機具鍛冶を営み新しい多くの農具をつくりました。
義八郎さんは、君島義八郎藤原義次という銘をもつ、太田藩の刀鍛冶で、君島さんのつくった農具は一段と立派であったといわれています。
当主の義弥さんは、お孫さんに当たり、公職にもつかれ岩見沢のために活躍されています。
辻村突きホーと呼ばれるのは、上に二本の角状の鉄棒がつけられています。これは辻村直四郎さんが新たに考えた方法で特許の登録がされています。
辻村さんは無償で一切の権限を君島さんに譲り、譲られた君島さんは立派な農具として安い値段で売り出したので多くの農家は感謝して使ったといいます。
ど鍛冶というのは農機具を専門につくる鍛冶屋のことを当時そう呼んでいました。今でいう、農機具工場にあたります。
皆さん、『突きホー物語』いかがでしたか?。
次の民話はつじうら売りの爺さんです。お楽しみ下さい。
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