少年の頃父の使いで近隣の部落に出されるときに、目的の家を示される方法として開拓時代に残された大木や森が利用された。
その多くは赤ダモの木であったようである。東川向のどこそこの家は裏の幾春別川の川辺に赤ダモの木が2本あるとか、三笠山村の市来知の誰々の家は第1防風林をすぎて右手の道路2本目を入ったところとか、その当時は古木や森が道標として利用されていた。
現在の岡山橋、といっても旧の太鼓橋は昭和9年頃より鉄骨の橋となるため基礎工事が始められていた。
この岡山橋のふもと岡山側に、開拓の名残りを止める大きな赤ダモの木が1本残されていて、樹齢数100年というのであった。私達が5、6人寄って手を伸ばし抱えても余る根回りがあって、高さは40メートル以上でなかったかと記憶している。
とにかく当時高いものをはかる物尺のかわりに、岡山橋の赤ダモの木より高いかということが合言葉の1つになり郷土の誇りとして近隣はもとより遠くの人達にも知られていたものである。
昭和10年の晩夏、この赤ダモの木の下に3人の士族移住者が集まった。
士族移住者の森下勝蔵(当時69歳)1人は移住者2世の岩田喜久馬(当時63歳)あとの1人は同じく2世の松本静男(当時54歳)日露戦争の勇士の3人で、いずれも明治18年士族移住により鳥取県より入植した1世と2世で、鳥取県の旧はん士であった。
この3人の開拓者に託された使命は、岡山橋が永久橋に架け替られるに当たって国道の幅員を広げるために由緒ある赤ダモの木を伐さねばならなかったので、大木を伐木できる経験者として特に赤ダモの木に隣りする関係から依頼された。しかし、当時の若い人達は大きな木を伐す術を知らなかったので、この3人の開拓者が選ばれたことは理由のあったことである。
この3人の開拓者は明治18年に移住した折、官給として与えられていた大鋸、大マサカリを持ち出していた。わけても几帳面な岩田喜久馬は数日前から3人の大鋸の目立をし大マサカリをとぎすませていた。大鋸と大マサカリの柄は幾十年も使っていなかった故でもあろう、つやをすっかり失っていた。
とぎすました大マサカリのはが暑い陽射しににぶい光を放っていた。
兄貴分の森下勝蔵が赤ダモの根に腰をかけてぼつりといった。「クサビを造っておかにゃ」。これをきいて松本静男が「そうぞなあー」と、腰鋸をとって、いたどりを分けて川辺に降り桑の木の大枝を切り取って来てナタでクサビをけづりながら、岩田さんのナタは相変わらず切れるのうと、つぶやいた。クサビができ上がると倒口の高さを3人で相談をし、鋸目をいれる位置を推った。これを終ると先ず一服ぢゃといって、森下勝蔵が腰の煙草入れを抜く。岩田喜久馬もこれにならって、きざみのつけ火を分けあって美味そうに紫煙を流した。
森下勝蔵がぽつりとつぶやいた。この赤ダモの木は俺らと共に生きてきたわい、惜しい木だが道路の邪魔になるなら仕方がないが俺たちで伐すのは情けないなあーと。すると、外の2人も無条件でほんになあーと同調した。
この3人にして見れば残念の一言に尽きるであろう。幾10年の間喜びにつけ悲しさにつけ最も手近にあるこの赤ダモの木とともにながい年月を過ごしてきた、いわば3人の開拓者の分身といってさしつかえなかったのである。やがて岩田喜久馬が想念を打払うが如く立ち上がり得意のねじりはちまきをして一升びんの水を口にふくみ、とった大鋸の持手にぱっときりをふきかけ、森下の兄貴やるけいに、このあたりかと大鋸を赤ダモの根に当てた。つられて立ち上がった森下勝蔵と松本静男が肩を並べて岩田喜久馬の当てた鋸の位置を見定める。岩田喜久馬は地下タビの足で足もとの雑草をふみつけ、たしかめながら半円をえがくように大木に鋸目をつけていった。しばらくして、かたいわい、かたいわい、鋸を受けつけんぜと息を切らしながらいうと、一番若い松本静男が、岩田さん俺ら替わるけーと、岩田喜久馬の大鋸を引きつぐ。暑い陽ざしと草いきれの木の根元で、松本静男が顔を真赤にしながら大鋸に力をいれてひいていった。
ひさ方ぶりの鋸ひきである。息をきらしながら次々と替って大鋸をひいていった。頃合をみて森下勝蔵が、鋸はそこらでいいわいマサカリ入れてみるけいといって鋸を止めた。ひと休みの後森下勝蔵が大マサカリをとって足もとも踏みかため、エイッーと力の入ったかけ声を出して鋸目の上に打ちこんだ。カツンというかたい音がかえると同時に、黒い赤ダモ皮が赤黄色の木肉をつけてとんだ。1つ2つとかけ声と共に木片が大木の根元に散っていった。
東に移住してから51年目、苦しい開拓の日々と、開拓にかけたさまざまな夢、士族移住者としての誇りもこの赤ダモの木を伐すことによって総てが決算だ、終わりだ、と思い切った気持ちが力の入ったかけ声にかわった。
赤ダモの大木の最後、開拓者の斧の終り、ふり上げる大マサカリの刃が残暑の陽にキラリ、キラリと輝いていた。
現在旧橋となっている岡山橋が完成したのが昭和11年と記憶する。当時この橋の架設費用は12万円と聞く。不景気時代の当時としては正に大金であった。昭和11年秋には陸軍特別大演習が行われ、幾千の第七師団の将兵がこの岡山橋を駆けぬけ砲車がごう音を残して去った。
森下勝蔵は昭和28年11月14日に年87歳をもって、松本静男は昭和30年6月9日に年74歳をもって、岩田喜久馬は昭和39年3月10日年93歳をもって、共に士族移住者として開拓した東と岡山の地で永眠された。
本年は、岩見沢開基90年、市制施行30周年の意義ある年である。往時を回想しごめい福を祈ってやみません。(昭和48年8月22日)
皆さん、『開拓最後の斧』いかがでしたか?。
次の民話は明治19年の元旦です。お楽しみ下さい。
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