岩見沢ではじめて活動写真が映写されたのは、明治35、6年頃のことである。時期は定かでないが、たぶん夏から秋に移り変わろうとしていた頃であったかも知れない。場所は東小学校の校庭であった。
映写会のある当日は、かなり前から宣伝されていたので人人々は早々と仕事をすませ、夕食も明るいうちに食べ終えて、日暮れになるのを心楽しみに待ちこがれていた。日が暮れはじめた頃から、東部落のみでなく近隣の峰延・岡山・東川向などの地域からも家族同伴で見物に多数やってきた。
あまり広くもない校庭はみるみるうちに人でうずまってしまった。校庭の片隅にあるブランコの2本の柱の間に大きな白布が張ってあり、これが映写幕であった。あたりが夕やみにつつまれはじめると上映がはじまった。
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ガスランプの光源を使った映写機から写し出された画面は、幾つかのまんまるい手まり大のものが画面一ぱいに幾つもぐるぐる回るのみで、何が何やらわからないうちに第一巻は終わってしまった。第二巻の内容は、道端のさくにつながれた一頭の馬がいて、その前に水の入ったかいば桶が置かれている。馬が首をさげてかいば桶の中から水を飲むようすが写し出された。
第三巻の内容は裾の長く広がったスカートの洋装を身につけ、頭には鳥の羽根で飾った帽子をかぶった西洋美人が写し出された。手にはハンカチを持って何回もそれを振り、最後に投げるしぐさをするものであった。フィルムの始めと終わりがつないであるので、同じことが何回も何回も繰返されるわけだが、観客は動く画面をくい入るようにみつめて驚き感心したものであった。
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音声を伴わない白黒の画面であった。蓄音機がはじめて登場したのは、明治38年9月15日の岩見沢神社の祭日であった。中央通り2条交叉点の四っ角にあった丸き呉服店前に、テント張りの見せ物小屋がかかった。小屋の入口に立つ印はんてんを着た呼込み男の口上は
「お客さん、お客さん、この機械は話すばかりではないんだよ。歌も歌うんだよ。ほらほら。東京の一流芸者が歌っているのが聞こえるよ。三味線のバチさばきの、ほらほらあやなこと。さあ、さあ聴いたり聴いたり」
と大声で客引きをしている。小屋の中に入ってみると、まん中に脚付きの台が一つ置かれていて、それを表が黒で裏が赤い色をした布を2枚重ねて縫った布でおおっていて、その布の上に一台の小さな箱が置かれていた。
これが蓄音機で、この箱からたくさんのゴム管(聴音管)がでていて、先端には骨製の差し込みがついている。これを耳にさしこむとゴム管を通じて音が聞こえてくる仕組みであった。箱の中の蓄音機がどんな機械であったのか不詳であるが、多分ロウ管を使ったものでなかろうかと思われる。
一度に10人の人が聞くことができ、一回の料金は大人5銭、子供2銭であった。物めずらしさから大勢の人が集まっていて盛況であった。
冨水慶一
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