金志貯水池物語


「そうだなあ。今夜は金志の溜池の話しをして聞かせるべ。」

そう言っておじいさんは、キセルの煙草をポンと手のひらに吹き落とした。

「わしら内地から来た頃は土地も肥えていたし、虫や病気も少なかったから、畑に何を播いても、よう育ったもんだ。だがのう掘立小屋の笹ぶきの間から星を眺めて思うことは、内地のなつかしさと、いつになったら腹一杯白いメシが喰えるか、と言う位に米が欲しかったもんよ。

買った米は貴重品、正月と盆の2回しかご飯は食べられんし、たまあに病気した時に米粒が数えられるようなおかゆだ。その頃まだ道庁では、米作りは危険だといって許さない。だが方々でかくれて米作りを試みる者が出て来た。家でもうらに池を掘って雨や雪の溜まり水を風車で汲み上げて一反前後作ってみると一俵ほど獲れたものよ。

反面年毎に畑がやせてきてとれなくなるし、虫も増えて来た。そうこうしているうちに、道でも水田作りに本腰を入れるようになり、あちこちだなあ、あれはたしか土功組合法が作られた時だと思うが、志文川をせき止めて溜池を作ったらの話がにわかに持ち上がって、わしら百姓の生きる道は水田を作るしかないべ、との結論になると何んだかんだのむつかしい役所の方の手続もあったが、それが済むと早いもんよ。

百人近い赤いフンドシのタコを使い、5・6人の看視役の棒頭を雇って1年半で完成させたのは見事だった。次の年の春満水に溜まった水が、水路を流れて来た時は感激で幾晩も幾晩も眠れなかったのお。この水で今まで赤い泥炭水や鉄気のくさい水を飲んでおった金子・志文の何軒かが助かったし、造田も急速に進んだっけ。

そうそう、この溜池にまつわるいろんな話もあるんで、ついでに聞かせるかのう。」

おじいさんはキセルをくわえ気持よさそうに煙草を吸うと、思い出すように眼を閉じてゆっくり煙をはき出し、また話し始めた。

「もともと、この沢の奥に4・5軒が住んでおり、畑作りと炭焼きをしておった。ここから子どもらは一里以上を学校へ通ったもんだ。冬は溜池に4・5尺の厚さの氷が張るもんだから、この上を近道にした。ある時、吉助爺が町へ買い物に出かけ、どっさり食べ物を背負いちょっと1ぱい機嫌でこの凍てつく近道を帰ろうとした。けどなあ、いくら歩いても、歩いても家へつくことが出来んのじや。

池の周りをぐるぐる回っておったんだな。やがて爺は、きつねにばかされたと知った。それで背負った荷物の中から油揚げを1枚ポーンと投げてやると、とたんに家がボーツと見えて来たというんだな。

それから何年か経って、この溜池にもたくさんの魚が棲むようになった。仕事の合い間に魚つりをする者が増えて来たのじや。ある夏の真っ盛りの日、4、5人の若者が魚つりに来たが、あまりの暑さにふりチンで池に飛び込み泳ぎを楽しんでいた………と、その中の1人が急に沈んでいった。

部落中大さわぎとなって、いかだを組みいかりを投げて引き上げたが、きっと心臓マヒだったのだろう。この男は、道路の測量技師とかいって内地から一人で出稼ぎに来ておったというこっちゃ池底に引きずり込んだとのうがった話も出たもんよ。

さあて、その年の暮、また変なことが起きた。前日からの猛吹雪で人も犬も一歩も外へ出ることが出来ない。

ちょうど溜池の入口に水番の家があったが、そこのかみさん、夕方何の気なしに窓の雪を手でこすって、外を見ると、今し方ついた藁靴の跡が見えるではないか。早速おやじさんと出て見ると八の字の跡が溜池の方へ向かっている。ぶどうづるの下に赤いかく巻きを着て、うずくまっている若い女を見つけたのじや。

凍死寸前で助かったのだが、生気づいてその水番夫婦に語ったのは“岩見沢の遊廓へ売られて働いていたが、耐え切れず自殺しようとさまよっていた。そのうち足が何かにひかれるようにこちらに向いた。勿論貯水池などあることは全然知らなかった。”と言うんだから、さては夏に水死した若者の霊が呼び寄せたのではないかとのうわさも出たほどだ。

おお何だか怪談めいた話になってしもうたわい。」

そういっておじいさんは、冷たくなったお茶をゴクリとうまそうに飲むのでした。外はこの話のときと同じようにヒューヒューと風がなって吹雪いています。

(補)
このことのあった翌年の春、雪解けを待って神主をよんでお祓いをし、水神を祀る祠を建てて、お祭りをするようになりました。
近年、金志貯水池も自然公園のハイキングコースに組み入れられ、満水面積10町歩(約9.9ヘクタール)の広さをもつその景勝とうっそうたる森林に囲まれた神秘なたたずまいに、訪れる人を魅了させます。





皆さん、『金志貯水池物語』いかがでしたか?。
次は志文民話第1集あとがきです。お楽しみ下さい。

トップページへもどる

岩見沢の民話のホームページへもどる

私のいわみざわへもどる