その昔、仙吉のとなりに同じ農家の新吉の家がありました。
新吉の家では早く両親が亡くなりましたから、新吉も妹の千代も弟たちも、みんな、おばあさんに育てられました。
新吉も千代も弟たちも、一生懸命働きましたが、まだまだ大人程働くことが出来ません。それで春になって畠をたがやす時は仙吉の家で手伝ってやり、又、とり入れの時も仙吉らが手を貸してとり入れを手伝ってやりました。
新吉は学校を卒業すると一心に農業に励み、わからないことがあると、仙吉の家に来ていろいろと教えてもらっていました。
そのうちに新吉は、20歳の立派な青年になりました。そして、その年の徴兵検査には甲種合格となって兵隊になることになりました。
新吉の家では兵隊に行くことはたいへん名誉なことだとおばあさんがお祝いをしましたが、新吉がいなくなったあと畠仕事をするのは大変なことだと仙吉らはいい合っていました。
秋のとり入れが終って冬になり、12月になると、いよいよ新吉が入営するために出発することになりました。
近所の人々は、みんな見送りに来ました。
『元気でお国のために働いてこいよ。』
『あとの事は心配するな。みんなで手伝ってやるからなあ。』
と、元気をつけて見送りました。
『それでは行って参ります。あとの事はよろしくお願します。』
と、新吉は新しい青年団服にゲートルを巻いて、みんなに別れのあいさつをしました。
『それじゃばばあが峠まで見送ってやるぞい。』
と、おばあさんは新吉と一緒にお昼のおにぎりを背にせおって行くことになりました。
村人たちは、峠の下まで見送るとそれぞれ家に帰りましたが、おばあさんと新吉は曲がりくねった雪の峠道に見えなくなりました。
そして、峠の1番上までおばあさんが一緒について行ったのです。
峠の高い所まで来ると、おばあさんは背にした風呂敷包みを新吉に渡して、
『さあ、これを持ってゆけや。お前が元気にご奉公を務めて帰るまでは、ばあちゃんも丈夫でいるでなあ。その時までには、いい嫁ごをさがしておいてやるで。家の事は心配するでないぞ。』
と、いいました。
新吉は、
『ばあちゃま。達者でな。元気でいてくれや。何かあったら、仙吉おじさんに相談してなあ。それじゃ。これでさようなら。』
『新吉や元気でなあ。新吉やー元気でなあー。』
と、いって峠を下りて行きました。
おばあさんは、新吉の姿が見えなくなるまで、
『新吉や元気でなあ。新吉やー元気でなあー。』
と、声をかけていました。
その声が聞こえる度に、新吉も、
『ばあちゃまも、たっしゃでなあー。たっしゃでな あー。』
と、答えていました。
それからはこの峠をみんなが孫と別れた峠というので孫別というようになったといいます。
参考
昭和37年5月に全市の字名地番の改正がありました。その時まで、孫別という字名がありましたが、今は東山町、日の出町に分けられました。
峠の1番高い所に、孫別小学校がありましたが、今は日の出小学校に併合しました。
そのあとが孫別公園となっています。そして、ハイキングコースの休み場ともなっています。
孫別はマゴペットというアイヌ語が語源といわれています。その意味は、向こう側に川のあるところという意味だといわれています。
その向う側の川は、市来知川のことをいうといわれています。
皆さん、『孫別ものがたり』いかがでしたか?。
次の民話は吹雪号ものがたりです。お楽しみ下さい。
トップページへもどる
岩見沢の民話のホームページへもどる
私のいわみざわへもどる