『私達が青年時代には、今の労災病院のあたりが競馬場でねー。幾春別線の汽車が競馬場のすぐそばを通るので、競馬の時はいつもより、ゆっくり、ゆっくりと東町の坂をのぼって行くので、客車の窓は乗客の顔で一ぱいになったものだったね。それに線路が競馬場に沿ってまわっていたので、どうかすると、1レース位は見物出来たものだったよ。』
70をとうに越したその老人は話を続けていった。
『そうだねー。鉄道の出来たのが明治15年で、まだ岩見沢村が出来る前であったから、1番都合の良い場所を選んで線路をつけたはずだった。
だから、最初の線路は、東の踏切を渡ると右にカーブして、萱野の先の砂利山まで、1里25町(5キロメートル)を真っすぐに線路をひいたものだった。昔、競馬場のあった真中を通って今の労災病院の敷地の北側だったね。ところがだよ。』
『どうしました。』
『そのなんだなあー。汽車の馬力がないものだから、東の踏切を渡ってからの坂がどうしてものぼることが出来ない。
そこで、競馬場から労災病院の高台にかけて15尺(5メートル)以上も切り割ってみたが、義経号も弁慶号も機関車だけならのぼれるのだが、貨車を引いてはのぼり切れない。仕方がないので、あらためて測量をしなおして、東の踏切を渡ると界道路の先まで勾配の少ない低い土地を選んでぐるりと遠回りをすることになったのだよ。
お蔭で競馬場が出来ると、幾春別線のお客さんは列車の中から競馬が見られるようになったというわけさ。』
『たいした坂でもないのにのぼれなかったのですかねー。』
『そうだー。その頃は11月の末になると降雪期につき明春融雪まで運休するという張り札がでたものだよ。』
『冬は汽車が通らなかったのですか。』
『そうだよ。一寸した坂がのぼれずにまわり道をしたり、雪が降ると春まで休んだり、今の人には判らんことだろう。』
老人は、キセルの雁首から吸いつけた火のついた刻み煙草を上手に手のひらにうけていました。
参考
北海道で1番早く鉄道が敷かれたのは、明治13年、手宮〜札幌間です。引き続き、明治15年11月13日、幌内から手宮に石炭が輸送され、岩見沢駅、幌内駅が開設されました。初代岩見沢駅長は、田隈広作といわれます。
古い5万分の1の地図には、老人のいう通り競馬場があり、その中央に掘さくのあとが記入されています。
明治23年11月、駅立売業が許可され、弁当、すし、果物などが売られました。初代営業者は、荒木三次郎といいます。
当時の駅は、中央通りの旧踏切を渡った東側にあったといいます。
明治25年2月に駅は現在地に移転し、昭和8年現在駅に改築しました。
皆さん、『まわり道をした線路』いかがでしたか?。
次の民話は孫別ものがたりです。お楽しみ下さい。
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