お杉は顔だちも整い背丈のある美しい娘になった。とくに陰のない明るい性格でこまめに働くさまは近隣からほめられまた愛しがられていた。10歳のときに母を亡くし父源蔵の手ひとつで育てられて17歳、源蔵の一人娘であった。いつの頃からか源蔵の家に近隣の若者達が寄り合うようになって、若衆宿のようなかたちとなっていた。
源蔵は若者達の苦情や困りごとなど素直にききとってあれこれと自分の才覚で裁きをつけてやる雅量のある男であったので、雨の日などは炉ばたが空くことがない程若者の出入があった。源蔵は集る若者達に、2つの厳しいしつけを持っていた。勝負ごと、野荒らし、であった。いついかなるときでもこの2つのことには目を放さない源蔵であった。
だから源蔵宅の出入りを若者の親達は認めていたのである。若者達はいつも大きな切炉の板間に土足のまま腰をかけて、馬自慢、力自慢、食自慢と常に大声をあげて口角泡を飛ばして語り合い、腕をまくりあげ力コブを競い、板場に横になって腕相撲をとり、力あまって足を伸し自在鍵の鍋をひっかけて、お杉の火ばしを喰らいゲラゲラと喜んでいるものもいた。
しかし年月の流れとともに若者のなかには次第に変わってくるものもいた。岩見沢の帰りといって馬車追いの駄賃をさいてお杉に小衣をそっと贈る者もいたり、それとなく源蔵にきざみを置いてゆく者がいたり、単調に見えるこの若者宿もすこしずつ変って来ていた。
面と向って源蔵にだれそれを婿にとはいうものはいなかったが、源蔵はだれを婿にしようかといま考えの最中だとか噂話が広まっていることは事実であった。源蔵も勿論知らない訳ではなかった。なんとかせねばと思いながら忙しさにまぎれていたことも事実だし、第一みんないい若者ばかりのなかから、これがお杉の婿よ、よろしくいま迄どおりになあ……と、自分の口からいえる若者をどうしてえらぶのかと、顔には出さないが心くだいていた。
畑の蒔付を終えた5月の末、珍らしくなが雨がつづいた。集まっていた若者達に、俺ら幌内太にいってくるわと家をでた。源蔵の行き先は富八の処であった。富八と源蔵は年も同じで若い頃は流れ者、共に幌内炭山の下請の飯場でゴロゴロしていた時の友達であった。バクチもすれば酒もすき、おまけにけんかとくれば2人で買っても出る程の仲。
そんな頃2人よりまだ上手の流れ者におだてられ、ひと夜素人を集めて、イカサマ博打を開帳して、元も子もなく全部持ちさらわれてぼう然としているところへ、幌内太の貸元といわれていた緒方佐太郎親分の若者に一件を知られ、縄張り荒しは生かせて置けねえ、と川原に引きだされて2人共アバラ骨を折られた末、日本刀で片腕もとおどかされている最中、近くの角やの大工甚兵衛に救われて、それ以来まともな若者にかえった2人であった。
富八は甚兵衛のもとで大工になり源蔵は作男から小作ではあったが百姓になった。もう共に50の坂を超えていたが富八は源蔵より人の世話好きでこの年になっても相撲好きで若者頭であった。
源蔵がたずねていくと富八は裏の大工小屋で弟子に桂の床板にカンナをかけさせながら、あれこれと注意をあたえていた。源蔵をみると、富八はおう来たか、といって裏口から炉ばたに源蔵を伴った。富八の家内のさくも留守で自在鍵の鉄びんだけが静かに息をついていた。富八は出がらしといって源蔵に茶をだし、俺らお前がいつくるかやとさくと話していたぜ、お杉のことで来たべ、なあ……俺になあ、お前の顔の立つように俺ら考えとるからなあ、そのかわりこのこと誰にもいうなや、けっしていうなやと念をおした。
源蔵はお杉の婿えらびのことをここまで富八によまれていたのでは致し方なかった。源蔵は婿のムの字もいう事なく世間ばなしをして丸久の鍛冶やに寄って帰るといって富八の家をでた。雨はふり続いていたが源蔵の気分ははれていた。
夏がきて麦も焼き、亜麻もかわかし雨が来た。若者達は、ソウメンを持ち寄って源蔵宅に集まった。ひさ方ぶりの集まりであった。お杉は土間の自在鍵に大鍋をつるして若者を叱りつけながら、ソウメンをゆであげさせ、自分は板間でイリコを沢山に使って、かけ汁を作ってやった。若者達は井戸から水を汲みあげてソウメンを冷やし、大ザルに盛って板間の中央にどんとだした。ザルを中心に若者が輪をつくり大きな手しょう皿や、ゴロ八茶わんにめいめいがソウメンを盛り、いただきますとも、うまいともいわず吾れさきにと食いはじめた。あつかましい程の喰いぶりがつづいた。
お杉は火のほてりに当って土間の荒ムシロの上に横になって休んだ。喰い終わった若者達は、あゝ喰った、うまかったなや……といいながら後手に体をもたす者、さっと横になる者、満腹をもて余して話をするものもなくしばらく広い板間はしんかんとしていた。
義太郎は今年17歳、お杉の家の裏手にある農家の二男坊、この若衆宿に顔は出していてもお杉の弟のようなもので色恋いにはほど遠い若者であった。この義太郎が思いだしたように静けさを破って起き上りながら、あゝうまかったでやと腹をぽんぽん叩きながら妙なことをくち走った。こんなこともう2度とないべやとしゃべったあと、はあっとした顔になった。義太郎の向い側で横になっていた松造が起き上って、おい義太郎お前いまなんといったと、これをききとがめた。義太郎は、ヘヘェいまにわかるべぇ、といいながら土間に降り、俺ら用があるけえとゾウリを突っかけて小走りにでていった。義太郎のはだかの背に暑い陽が照りつけた。
お盆が過ぎ祭りの近づく頃、相撲に勝てば、お杉がもらえる、という話が村に広まった。富八の打ったお杉の婿えらびの手段であった。この時代の村祭りの相撲は非常に盛んなものであった。特に幌内炭山から後に大関となった太刀光が本場所に入ったときでもあり、相撲に対する一般の関心は大変なもので、村々の強い若者には旦那衆が立派な化粧まわしを贈って晴れの土俵入をかざるという熱の入れようで、勧進元の旦那衆が座を連ね、賞品も白米が幾俵もかざられ、ひねりもどんどん投げられるという豪華なものであったし、夜となれば毎年のように歌舞伎芝居が興業されて秋祭りを盛り上げて、後々にいたるまで出しものが伝え残されていたことでもその感況がうかがえるものであった。
わけてもこの秋の祭りの相撲五人抜きにお杉と白米がかかっていた。富八の考え抜いた婿えらびの手段、5人抜き、富八が俺にまかせ、と源蔵にいい含めたことはこれであった。お杉が欲しかったら5人抜きに勝て、相撲をとって負けたらきれいにあきらめてくれ、で、当時としては、あと腐れの残らない唯一つの婿えらび方法であったかも知れない。富八はそれぞれの旦那衆にも話をつけての事であった。9月5日は市来知神社のお祭りの日、お杉を張り合っていた多くの若者達は、土俵上に青春をかけた。
5人抜きの披露を買って出た富八は勧進元に挨拶して、一段と声を高くして、只今より1農区より4農区までの青年相撲を勧進元のお声がかりでとり行うと、たまりの若者達をさし招いた。もの凄い声援がおくられ5人抜き相撲は白熱していった。結果は森蔵が勝者となった。真黒に日焼した森蔵は軽々と賞の白米を差し上げて土俵を幾回も廻って声援に応えた。
森蔵は相撲に強いばかりでなく、造材、馬追、野良仕事等なにをしても群を抜く若者で源蔵の若衆宿の一員でもあった。冬がすぎ春になってお杉は富八の世話で森蔵を婿に迎えた。まことに似合の若夫婦であった。
ずっと後年私の祖父の法事のおり森蔵と同年配であった元蔵、要吉の両伯父が珍しく泊ったとき、布団の上に座った2人が昔話をはじめたが、そのうち多少皮肉屋の要吉伯父が、元さんあの時相撲をとっただろうというと、元蔵伯父はヒゲ面をなでながら、とるにはとったがエヘヘ、といって笑っていた。この元蔵伯父は魚釣が好きで雨が続くとかならずといってよい程に幾春別川を下って来て家に寄っていた。その度に私の母は、兄さん釣れたかい、とたずねると、うんにゃ釣れんかったわい竿はお杉のうちに置いて来たわいとヒゲ面をなでていた。この頃要吉伯父が偶然というのか幌内太から住居を変えた。それがお杉の家の筋向いの空地に家を建てて入った。
本当に妙なめぐりあわせ、としか考えられないが、当然伯母が私の家にひんぱんに出入りするようになったが、この伯母がくる度毎に旦那の要吉がなんでも大事な用事といってはお杉さんの家に出かけると、恪気の言葉を重ねて家の者を笑わせていた。あれからもう45年余泣きたい程の思い出である。
鈴木春男
『文学岩見沢』第19号掲載
皆さん、『お杉さん』いかがでしたか?。
次の民話はおもいで点描です。お楽しみ下さい。
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