その頃は、これより先は「幌向原野」と一まとめにして呼ばれていました。開拓に入った人もおりませんから別に不自由なこともなく過ごしてきました。
その幌向原野と呼ばれていた土地に何戸かの開拓農家が入ってきました。幌向川の近くに家を建てた人もいます。少し離れた丘の裾に家を建てた人もいました。みんな人々は、一抱えも二抱えもある大きな木を切り倒し、排水を堀り、道をつけ、川には丸太橋を架け、畑を耕し、一生懸命に働きました。
小高い利根別の丘から冷たい、きれいな川が流れていました。いつもたくさんのうぐいが取れました。
昔から、誰いうことなくこの川を「シュプンベツ」と呼んで大切にしていました。きっと大昔、この付近に住んでいた人たちがそうよんでいたのでしょう。それは「うぐいが取れる川」という意味だそうです。
又、多くの開拓農家が入ってきました。村人たちは子どもたちに立派な人になって欲しいと考え、学校を建てることにしました。すぐ学校が建たないので、とりあえず寺子屋式の教育所を建てることにしました。人々はみな力を合わせて建築の手伝いをし、程なく立派に出来たのです。
さて、この教育所の名前をどうしようと相談しました。まだこの土地の名前もついていません。そこで、主だった人々が集まり相談の結果、昔から大切にしていたシュプンベツ川の名前をとってシブンと呼び、文字は学問をして立派な人になるのだから、文(ふみ)に志(こころざす)としてはどうかと相談がまとまり志文と名付けることになりました。本当に立派な名前だとみんなが心から同意しました。
そこでこの地域の名を志文と呼び教育所を志文教育所と名付けました。志文と名付けた人は、その後町会議員などをした辻村直四郎さんという人でした。
その後、志文の人々は水田を開くためにシュプンベツ川の上流にダムをつくり、金志土功組合173町歩(173ヘクタール)の水田を開発しました。この貯水池が、今利根別自然休養林の中にあります。
又、シュプンベツ川のそばにある坊主山と呼ばれる小高い丘は、3,500年前位に先住民族が生活をした跡が残っている冷水遺跡といわれています。
そして、志文開拓の功労者である辻村直四郎さんの記念碑は、志文小学校の前に立派に建てられています。
皆さん、『シュプンベツ物語』いかがでしたか?。
次の民話は木霊ものがたりです。お楽しみ下さい。
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