大木になった杖の木


その頃の岩見沢は、空知の中心とはいえまだまだ今のように開けてはいませんでした。

それでも、官庁があり、鉄道が通り、札幌通り、夕張通り、室蘭通りなど国道の起点となり、商店がならび、旅館があるなどなかなか賑わいのあるまちでした。

しかし、まちはずれから先はもういなか道で、馬車が1台通れる位の道幅しかありません。隣部落に行くにも、人も馬車も、めったに通らないような、ほこりだらけの道を歩いて行かなければなりませんでした。今のように、バスもハイヤーもない時代ですからみんな歩いて行くのでした。

そんな時、まちはずれに1人のお坊さんがいました。お坊さんは本山で仏教の勉強をして僧侶の資格のほかに、学校の先生の免状も持っている大そう学問をしたお坊さんでしたから、本山からこの地方の布教のためにといわれてきたお坊さんでした。

お坊さんは、毎日、村人たちに仏の道を教え諭しました。時には貧しい人々のために義捐の托鉢に歩いたこともありました。そうした時に必ず木や草の大切なことを教えたのです。

『家を1軒、建てるにはたくさんの木材がいるが、その木材になる木を育てるには50年、100年もの年月がかかる。

橋を架ける時の桁にしても橋杭にしても同じことだ。

みな、そうしたものの恵によって人々の暮らしが出来るのであるから、たかが1本の庭木であっても大切に育てることによって、人と木との間に言葉にならない心と心が通じ合うようになって、木を大切にする人には必ず良いむくいがある。』

と、説いていました。

そんなある時、遠い炭山の方の測量を終った人々がまちに戻ってきました。疲れた人々はどこかで木の枝を折って杖にしてきた人もいましたが、宿につくと今まで杖にして助けてもらった枝などは道ばたにほうり捨ててしまいました。

翌日、そこを通りかかったお坊さんはその枝を見て、

『これはかわいそうなことをしたのう。こんな道ばたに捨ててはならん。どれ集めて片付けて進ぜよう。』

と、ちらかった木を集めましたところ、中に柳の枝がありました。

『おお。この杖にした木は柳だのう。まだそんなに傷んでいないからきっと根付くであろう。どれ私が挿し木をしてやろう。』

と、いって捨てていった枝の中から柳の木を取り出して、根付き易くするために少し手を加えて、まち角にズブリと挿し込み、ありがたいお経をとなえて帰って行きました。

10日たち、20日たち、1月と日が過ぎますとその挿し木から新しい芽が出て、その年には少しは小枝もできました。

1年、3年、5年と月日は早々と過ぎてゆきました。いつかまち角の柳の挿し木はもう立派な木となって、しだれた細い枝が夏風にゆれ、まちの人たちのよい夕涼みの場所になりました。

挿し木をした時は、家もなかったその場所は、今はまちの中心となりましたが、柳の木はまちの人々に大切に育てられています。



参考
このお坊さんは、前田正範師で今もご健在です。社会福祉事業に挺身され、町会議員、市議会議員として町政、市政のためにつくされておられました。
前田老師が挿した柳の杖は、当時昭和炭坑の調査に入山した、矢野貞三技師の一行が杖にしてきたものでした。
この調査班には、外人技師が4人もいたそうです。
大木になった挿木の柳は、市内7条西5丁目旧北海タイムス支社の角にある柳です。





皆さん、『大木になった杖の木』いかがでしたか?。
次の民話はひょっとすると爺さんです。お楽しみ下さい。

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