鉄管道路物語


その頃は、そんなに道路がついていませんでした。

札幌道路とか、夕張道路のほか上川新道、志文新道、基礎道路などが主な道路でした。

そんな時代に水道を引くことになったのです。

まちの人々は何度も話し合いをしました。しかし、水がなければ人々は暮らしてゆけません。どうしても水が欲しい。どんな苦労をしても水が欲しいということでたいへんな借金をして水道工事を始めることになりました。

色々とたくさんの書類をつくって、お上(おかみ)にお願いに行くことになりましたが、そんなお金の用意がありません。町長さんは、まちの人々からお金を借りて内務省にお願いに行くことになり、お金を用意してくれた人々に町長さんは借用証書を出してお金を借りました。

そんな苦労のかいがあって工事の許しがあり、水源地を市来知(いちきしり)の上流の一の沢に決め大きなダムが出来ました。

配水池が今の労災病院の新しい小高い丘につくられました。そして、一の沢の水源地から配水池までの間は鉄管で流してくることになったのです。

太い長い鉄管を馬に引かせて1本づつ並べてゆきました。

鉄管を埋めるために土を掘る人夫、鉄管やそのほかの材料を運ぶ馬と馬夫、測量をする人たちなどたくさんの人々が水道工事の現場に毎日毎日通うのですから、いつかそこに立派な道路が出来ました。

川には橋がかけられました。道の両側に側構も掘られました。

道路は水源地の方にドンドン延びてゆきました。道路が先に延びてゆくことは、それだけ工事が進んでいる証拠でした。

そして3年後に立派に工事が完成したのです。

きれいな水が、一の沢のダムから、みんなが苦労してはこんだ鉄管を通って配水池に流れ込みます。今度は配水池から市街に向けて配水管の中を流れてゆき、何百とある蛇口から勢いよくザーッとほとばしり出ました。

そのきれいな水を手にうけて、人々は涙を流して喜び合ったのです。

そして、水源地から配水池までの工事の時に出来た道路は正式な道路ではないが札幌道路のように幹線道路としてあらためて使用することになりました。そしてこの道路の名前を、水道管を埋める工事のために出来たので鉄管道路と名付けることにきまりました。

今も、もとの浄水場から東の方に下りてゆく道路がありますが、この道路の下を一の沢の水が鉄管の中を通って流れてきているのです。

参考
岩見沢の水道は、明治19年に当時の開拓使が地元で作った土管を使って一の沢の水を元町まで引く工事をしましたが、うまくいかなかったようです。
この時使用した、大、小2種類の水道管が郷土資料室に展示してあります。
今は桂沢ダムから水をひいていますが、その前は明治39年に工事を起こし明治41年10月に竣功した水道を使っていました。





皆さん、『鉄管道路物語』いかがでしたか?。
次の民話はなべの沢物語です。お楽しみ下さい。

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