開拓初期の北海道は、植民地行政で内地府県と異なった制度で待遇を受けていました。
兵役を国民の義務とした憲法から徴兵令も適用除外地区として免除し、働き盛りの若者を開墾労働に専念させるようにしました。
そのうちに北国を外敵から守ることと、開拓の一石二鳥をもくろんだとん田兵条例がつくられました。
平時は、農耕に従事し、戦時には武器をとって軍務につく使命をもつものです。家族には移住費、家屋、農具、耕地、そして三年か五年の食費が与えられるものでした。
本州では、土地の面積に限りがあり、農作物も安く、地租を納入出来ず、次三男も失業状態いう背景がありましたから、このとん田兵募集の広告に殺到したことが容易にうなずけます。
対外政情は、風雲急を告げ、日本は清国に対して宣戦布告しました。
日清談判破裂して
品川乗り出す吾妻艦
つづいて金剛浪速艦
維新後、最初の外国との戦争で打倒清国の敵がい心をあおったこの歌が一世を風びし、戦時一色に人心を塗り替えました。
この局面にとん田兵にも旭川の第七師団へ集結の動員令が下されたのはいうまでもありません。
米吉一家が最初に入った沼貝(現美唄)のとん田兵村は、すごい泥炭地で水はけが悪く、来る年も次の年も作物は満足に育たず苦労の割に報われることが少なかったものですから、どこかに良い土地をと考えていました。
3年の現役、4年の予備役の任務が終わった春に、息子の貞吉も立派な後継者として育っていましたから、思い切って同郷の人が住む下志文の土地に移住することにしました。
幌向川の流域の肥沃なところで、何をまいても良く穫れます。
日清戦争勝利の終結以来、日本はロシアと満州の権利を獲得するため外交交渉を行っていましたが、双方の利害は平行線をたどって妥協点を見い出すことが出来ず、ついに、日露戦争へと発展してしまいました。
貞吉をはじめ多くの若者に、「赤紙」とよばれる召集令状が来ました。
歓呼の声に送られて、志文の停車場から戦地の満州に向かって出立します。中には妻子を残して別れる者もいます。
貞吉の出征の朝、祖母のサダは、千人針の日の丸を腹に巻いてやりながら「決して後のことは心配するでないぞ。みんなで畑を守り抜くでな。」その声はりん然としておりました。
サダは、内地に居た若い頃、男達と角力をとっても負けないというエピソードをもつ女丈夫で、いまだそのへんりんを失っていませんから貞吉の分も引き受けて仕事に精を出します。
出征兵士の見送りには、誰彼の区別なく必ず出向いて激励するならわしになりましたし、農作業の合間には留守宅を訪問し、世話をします。
戦地の兵隊さんに間断なく慰問品を送り続けたり、役場を通して何度もお金を寄附しました。
誰いうとなくサダのことを「兵隊婆さん」と呼ぶようになりました。
“銃後の鑑だ”と兵隊婆さんの行為が耳目を集め、広範囲な話題となっておるころ、満州では日本軍の快進撃が続いておりました。
貞吉の旅順二百三高地での戦死公報がもたらされたのは、桃の節句を間近にしてのころでした。
注
ともすれば忘れ去られがちな我がふるさとの先人の面影を残したいものと、数年前からつれづれに聞いた古老の話をもとに書き出したものです。
ことがらを確かめる過程で実に多くの方の協力をいただいております。団らんの一時のよすが(注 昔のことを知るたより)となりますれば、尚幸と存じております。
皆さん、『とんでん開拓と兵隊婆さん』いかがでしたか?。
次の民話は射げき場物語です。お楽しみ下さい。
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