明治28年岩見沢の幌向に入植した父は、何度かの水害にも頑張ってきました。一番上の私も小学校入学を迎えることになり、小さな体で6キロもある悪い道のりを通わすことは、かわいそうだ、何とかして学校の近い所に移り住みたいものだと考えておりました。たまたま親類の勧めで、下志文の鉄橋近くに土地が見つかり、大正6年、春間近の3月に生活道具をまとめ移住しました。
開墾された土地には、まだ大きな切株があちこちに残っており大切な農具をいためることがしばしばでした。父は、まだ若かったので、のこぎり、おので一株一株太い根を切り離し、馬で引き起こして畑を広げ種子をまくのが毎日の仕事でした。初夏となり、エンバクや豆類は大きく育ち始め、秋の収穫が多いことを期待し、父母は除草に精を出しておりました。
ある日、草取仕事の途中で、母は夫の六三郎に
「どうも目が悪くなって草取りも不自由だ。」
と語りかけました。その頃沢山いる子供等の中で病気の者が絶えなかったので、世間でよく言われている方角が悪いのかなと色々考えて暮しておりました。秋も間近なある夜、信仰深いおじ(父の兄)が来て
「六三郎や、お前の畑の中にご神木がなかったか。それを損なっていないか」
と問いただされ、そういえば最後まで畑の中に残された大木の切株を、今春ようやく根を切り掘り上げたことを思い出しました。おじは続けて
「そのご神木には明神さんが住んでおりなさるのだ。それを、のこや、おので傷つけてしまったのだ。これからは丁重に祭らなければならない」
と付け加えました。
父は翌朝、幌向川のやぶに掘り上げられたまま放置された大木の切株を、畑のすみに引き上げ小さな社を建て、オンコやスモモの木を数本植え安置し、毎月13日には欠かさず家族全員と隣のおじが集まって明神さんを土地の守り神としてお祭りをして来ました。
父の一家が離農する昭和32年までお祭りは続けられ、母の眼病は進行せず失明することは免れ、私等兄弟姉妹健康で社会に尽くすことができました。
離農にあたって、父は土地を購入してくれたおいに
「この明神さんを土地の守り神として粗末にしないよう祭ってもらいたい」と伝言してこの土地を去りました。その後、幌向川の治水工事が進められ、明神さんの社や切株は堤内地となり跡形もなくなってしまいました。
畠中 博
皆さん、『土地守り神のはなし』如何でしたか?。
次の民話は岩見沢の活動写真と蓄音機ことはじめです。お楽しみ下さい。
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