北海道行刑史をみると、樺戸集治監では、明治18年に大集団の脱獄事件があったようである。集治監の創設当時は、本州の政治犯がほとんどで、それがこのころには極悪犯に変わっているようである。従って警備の巡査はピストルの携行を許されている。逃走した囚人はおおかた札幌付近の村落に出没して、強盗や窃盗はもちろん、暴行、脅迫といったあらゆる暴虐の限りをつくし、そのために住民は戦々恐々として、昼でも戸窓をとざして外出を止めたともいわれている。
集団の多くは札幌近郊に向かったものの、中には脱落したり、方向を転じたりして、行刑史の記録では、全部が逮捕されたことにはなっていない。その行く末はいろいろ取沙汰されているのも、もっともな話である。追跡に加わった刑事の中には、野原の足跡をたどって、あるところで、糞便を発見している。その大胆不敵なやりかたに舌を巻くこともあったというが、こんな奴はとうていつかめぬとして追跡をやめたということである。空腹のために野たれ死にしたものもあったそうな。
そこで樺戸集治監は、岩見沢に近いことから、囚人についてつぎのような物語がある。この囚人は例の集団逃亡囚の1人であって、実刑は重かったが、それは飽くまでも誤っての殺人で、故意でなかったということである。彼は巧みに警戒網をくぐりぬけ、ポツンとさびしい一軒家の民家に辿り着いた。もちろんその服装からしてもこれが囚人と大体わかっておびえていると、簡単に自分の罪状の真偽を語って、食べ物を乞うたということである。この家の主人は、落着いた人で、食べ物を与えて、あなたは逃げ場に困っているのだろうから、これから行く先は何処何処がいいでしょう。そこはアイヌ部落で、そこならばあなたを匿ってくれるに違いない、と教えてくれた。囚人は深く感謝して、身をひるがえしたということである。
そこは通称ポントネといわれるいまの東山町で、岩見沢ではこの地にアイヌ部落があったといわれているところである。アイヌの人情は純粋であった。たとえ言葉が通じなかったとしても、囚人の真意は通ったもののようである。ということは、それから何年かたって、何処からともなく、逃亡囚のうわさが町に流れた。それには、アイヌ部落にそれらしいのがいるということであった。だがそれはあくまでも町のうわさにとどまった。
もしも仮にその囚人がアイヌ娘と結婚し、子どもができ、あれから最早や伝説のように風化してしまっているとしたら、この逃亡囚の罪をひとはいまも憎むであろうか。これもひとつの物語にしか過ぎなくなっている。
皆さん『逃亡囚物語』いかがでしたか?。
次の民話はイッチャン物語です。お楽しみ下さい。
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