開拓追想ばなし


明治17年から18年にかけて、岩見沢への移住は始まりました。

父は、先に移住した親類の話から将来の成功を夢みて、明治28年春、出生地を後に名古屋駅を出発したのでした。品川港より船に乗り室蘭へ上陸し更に汽車で岩見沢で下車、15日ほど知り合いの宅で世話になり、入植先を岩見沢村幌向1線東8番地に決め、近所の人等の力を借りて掘立小屋を建てましたが、屋根をふく草はなく、やむを得ず岩見沢から柾屋を頼み、小屋の側は木を割って板のようにした6分(1センチ8ミリ)厚さのものを一枚一枚縦に並べただけのものでした。

そのため、食事をしながら星を眺められるし、冬になれば吹雪の日などは、ふとんの上に雪が15センチ位も積もることもめずらしくなかったのです。

10歳で移り住んだ当時は友達はなく、日がたつと近所で年長の友達が親切に遊んでくれました。でも、ことばの通じないのには実に困りました。私だけでなく相手も困った様子でした。私は次々と分家して行く兄等を見ながら、父母と共に開墾に従事して来ました。

よく

「北海道農民は米など食べては暮らされぬ」

と、先住者から聞かされていたので、あわ、きび等を世話してもらいましたが、食べつけぬもの故、両親は絶対食べず、やむを得ず幌向市街へ行き、米一俵、麦一俵、青えんどう一俵等を手に入れ毎日の糧にしました。

米一俵といっても、道中で抜きとられ、引取った時は3斗7升(約56キログラム)より量がありません。お汁の実は、山ぶき、アシナ、タンポポ、オバコ、赤ダモのきのこ、後にさや豆、ばれいしょも取れ不自由はしませんでした。

熊と出合ったことはありませんでしたが、旧暦9月15日月夜のことでした。隣の池田さんと部落の集まりに行き、私は池田さんの後について行きました。池田さんは、急に立ち上り振りむいて、

「アンチャンよ、向うを見よ、あれは人ではないようだぞ」

と言うので、自分も月の明かりをすかしてみると、なるほど人ではないようです。そこで道端の切株で休み向うの動くのを待つことにしました。

しかし少しも動く気配はなく進退極まり、5、6服もタバコを吸い、つい大きな音を立ててしまい、その音で向うの物影が動くように見え、池田さんが、

「アンチャン動くようだが、行くのか、来るのか」

と問われたが、私にもはっきりわからず、2人で見守っているうちに人家の影になって見えなくなったので、ほっとし歩き出したのです。

やはり熊で、畑のきびは、めちゃくちゃで大鍋ほどの足あとは幾春別川を渡り川向へ行った様子で、急ぎ帰り馬に被害がなかったことを何よりもよろこびあいました。一年のうちで、お盆を何より楽しみにしていましたが、入植当時は洪水が多く、そのため床上に更に高く板を敷き二重の床を張り、狭い所で風吹くたびに打ちよせる水の上で、3日2晩仮の宿、水は引けども日は待たずで、水の中でお盆は過ぎてしまい、後始末が大変でした。

また、入植当時は新地のため作物に害虫が大発生し、丹精込めた作物は食べつくされ、道ばたの雑草まで食べ、道を歩くと虫を「ブツブツ」と踏みつぶし気持ちが悪いこと、今思い出してもゾーッとします。何しろ農薬がなく自然に任せておくより仕方がなかったからです。

開拓をしながら熊、害虫、洪水、冬の積雪、日常の飲料水のことなど、苦労した話は忘れられません。『空知のむかし話』空知の民話シリーズ第二集昭和59年3月(竹島六三郎回想記)より

畠中 博                       





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