駅前通りを教大に向かって走る道路が、農業高校の終わるあたり、そしてスポーツセンターの入口に近いそこに、いまは近代的な橋となった雨読橋がある。
雨読といえばすぐ思い出される晴耕雨読ということばがある。晴れて耕し、降って書を読む、実学のことである。その通り、この橋に近い学園、農業高校は、昔から実学をモットーにする汗して学ぶ学校であった。多分そんなところから付近の住民は、この橋を雨読橋と呼ぶようになったともいわれている。
それはあたらずといえども遠いことではないだろう。ただもう少しこれを手繰ってゆくと、そのころ学園には雨読先生と呼ばれるひとがいて、ある意味では、この学園の象徴的な存在であったともいわれている。
この先生はつねに晴耕雨読の実学精神を説いてゆずらなかったともいわれている。おそらく漢学の先生ではなかったかと思われるが、あまり上席ではないようだったが、職員間では皆一目おいたところがあった。その風態は古風で、がんこで超然としていて、しかも善意といささかのユーモアすら感じられるところがあった。
そんなところから雨読先生の愛称はとび出したのであろうが、この先生の本名をいうものはひとりもなく、従って本名は何というのかさえ知ってはいなかったようである。
これはだいぶん後の話になるが、中年の卒業生たちがクラス会をひらくために、いまはその所在さえ知れない雨読先生を、ぜひ招こうということになり、さてその本名はということになって、はたと戸惑ってしまったのである。いったい何という名の先生であったのか、ひとりとして正確にいえるものはなく、結局学園をたずねて、ただしたり古い職員名簿を調べてもらったりしたが、いずれも不確かな回答しか得られなく、このことは不分明のままに終ってしまったといわれている。
雨読先生と愛称されたひとは確かにいた。しかしいまはその存在の可能性さえ疑われるような遙かな年月の彼方のことになってしまっている。それにしてもこの付近の古い住民たちは、この風変わりな先生を決して忘れることなく、あざやかに記憶し、学園の伝説めいた言い伝えをしてきたのである。
学園本来の精神である晴耕雨読の実学主義は、雨読先生というひとの存在によって強く親しまれ、いつかこの橋の命名として長く残ることになったのである。
もちろん今日の雨読橋は当時のものとは予想もつかぬ変わりようだが、雨読先生は、永遠に橋名となって残っている。
皆さん『雨読橋物語』いかがでしたか?。
次の民話は親子狐物語です。お楽しみ下さい。
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