何千年も昔から流れている幾春別川は、その頃は川底まで見える程きれいな流れでした。
しかし、雨が降ると一度に水かさが増して、ごうごうと音をたてて流れます。そして、雨が止むごとに川の水も少なくなり、夏など本当に川底の方を少しばかり流れているだけでした。それでもこの川だけは橋か渡し船以外には向い側に渡ることは止められていたのです。
それはどうかすると、ズブズブとぬかって見るまに川底に沈んでゆくことがあるからです。
今の岡山橋のすぐ上手にアーチ形の鉄橋が架かっています。これは昭和十一年に岩見沢に初めて架けられた人道の鉄橋で工事費が八万円といわれています。
昔はこの川には橋が架かっていませんでした。岡山橋のところも、元右エ門の渡しといっていたのです。三笠の方に行く旅人や美唄の方に行く旅人は勿論、川向に畑を作っている農家の人も馬もみなこの元右エ門の渡し船に乗って川を越したのです。
ある日照りの続いた年でした。幾春別川の水は本当に少なくなり、川幅もいつもの半分になり、どうかすると渡し船の底がつかえてギシギシとなる程川の水が少なくなっていました。
それでも人々は昔からの言い伝えを守って誰一人歩いて川を渡る者は居ませんでした。
ある日のことです。
駄鞍をつけた馬を引いて来た者が居ました。そして川岸で舟の来るまで一休みしながらこの話を聞いたのです。
馬夫は、「何だこんな狭い川。それに川の水もほんの少しではないか。俺らは舟に乗らずにこの馬を乗って川を越すぞ。」と皆の止めるのも聞かずに川岸に下りてゆきました。そして鞍の上に乗ると馬を川の中に入れたのです。
上から見ると川底は良く見えます。ザブザブと丁度中頃にかかった頃、馬は急にいななくと後ろの方が半分程水につかっていました。舟待ちをしていた人々は「それ大変だ。」とばかり助けに走って行きましたが、どうすることもできません。見るまに馬はそのまま沈んでしまいました。あとには荷物が二つ三つ浮かんでいるばかりでした。
人々はこれを馬の背と呼んで恐れていました。それは馬の背もたたない程深く沈むからだといわれていました。
参考
以前は幾春別川を郁春別川と書いていました。三笠市は三笠山村といい、それ以前は市来知村、幌内村、幾春別村に分かれていました。美唄市は沼貝村と称していました。
「皆さん、『馬の背』いかがでしたか?。
次の民話は雪地蔵です。お楽しみ下さい。
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