明治の初めはまだ岩見沢という村はありませんでした。しかし、今の三笠市幌内炭鉱をひらくために多くの人々が入ってきましたから、米、味噌、魚などの外、工事に使うたくさんの材料などが岩見沢を通って奥に奥にと運ばれてゆきました。そのために道路工事が盛んになり、渡し場とか追分といわれる交通のよい場所には人家が並び商店や旅人宿、そして酒を飲ませる一ぱい屋には人家が何軒か出来たのです。
夕方になるとそうした店はなかなかの賑わいでした。
そうした中で長いことかかった工事がひとまず終わりましたから、人々はそれを記念して石碑を建てて三日三晩お祭りをしてお祝いをしました。
それから何十年もたちますとその当時の人もよそに移ってしまい、その当時の苦労などは次第に忘れられてしまいました。ですから誰もこの記念の碑をお祭りする人もいなくなりました。
そんなある年、大雨が降りつづき幾春別川が氾濫し一面の水害になったのです。
秋の稔りを前に、人々は僅かな荷物を背負ってやっとのことで、高台にのがれて水の引くのを今日か明日かと待ちました。
十日近くかかってやっと水が引きましたが、せっかく耕した畑は一面の泥と上流から流れてきた水などがあちこちに散らばり、道路も畑も見分けがつかない本当におそろしいすがたの土地になりましたが、みんな力を合わせて働いたので前よりも立派な畑もでき、前以上に立派な家も建ち並びましたが、この水害で記念に建てた石碑がたおれ、流されてきた土の中に埋もれて見えなくなってしまいました。
しかし、人々はもうそんな石碑のことなどすっかり忘れてしまっていました。そして、その石碑の埋まった所あたりも新しく移ってきた人が畑をつくることになりました。
その人は、麦や野菜をまきましたが不思議とその人の畑の作物だけがよい稔がありません。その畑をつくっていた人はあきらめて、とうとうよその土地に移って行きました。そして又別な人がきて同じ場所でつくっていましたが前の人の時と同じようによいとり入れがありません。村の人々は、不思議に思いました。
どうしてあの畑だけが作物がよくできないのだろう。何かあるのではないだろうかと話し合っていました。
後からこの畑を作っていた人は大層信仰心の厚い人でしたので、朝晩必ず神棚と仏壇におまいりをしていました。又、畑で取れたものは、必ず一番初めに神棚と仏様にお供えしてお礼をいってから取り入れをするのがならわしでした。
ある日、畑を耕していると鍬の先にカチンと固い物がぶつかり手がしびれる程ひびきました。
「おおいたい。えらい固い物のようだがなんだろう。きっと大きな石があるのだろう。」といいながら、そのあたりを掘ってみると石碑のようなものが埋まっています。
この人は大層おどろき、これは昔、誰かがおまつりしていたものにちがいない。今まで土の中に埋まっていて、そのことを知らずにその上を畑にしていたのはいけないことだと思い、一生懸命に掘り出しました。いくつかどろまみれになった石が畑の中からでてきましたので、村人に相談してその人の畑のすこし高い所にとりあえずたてましたが、その人は自分の祖先をまつるように毎年毎年お祭りをしました。
それからは今までと違って大変良い作がとれるようになりました。
又、何十年かたちました。
そんな昔話は、みんな忘れてしまいましたが、昭和28年に、山本市長さんが、この石碑は昔道路工事をした時の竣功記念碑であるからその人の土地に建てておくのはもったいないことだ。と、東神社の境内にあらたに立派に立て直して盛大なお祭りをして、工事に苦労した人々に感謝をしその霊を慰め、みんなで毎年お祭りをすることになりました。
石碑には「記念碑」と刻まれてありますが建設の年月はうすれて読み取れませんが、明治の初めに建てられたものといわれています。
参考
岩見沢の開拓は明治17年10月6日です。岩見沢と幌内との間の道路は明治11年につくられました。
幌内炭鉱の開坑は明治12年1月です。
幾春別川を昔は、郁春別川と書いていました。
皆さん、『埋もれていた土功の碑』いかがでしたか?。
次の民話鷲の沢物語です。お楽しみ下さい。
トップページへもどる
岩見沢の民話のホームページへもどる
私のいわみざわへもどる