渡し場物語


川ひとつはさんで、向かいは栗沢、こちらは岩見沢である。いまは立派な上幌橋がかかり、岩見沢の側は上志文町となっている。上志文町も、昔といまはずいぶん変わっているようだが、この橋のあたりは、すなわち渡し場といったところである。当時はかなり栄えたところらしく、そこが人の出入りのはげしい宿場となっていた。

舟はアイヌの使った丸木舟ではなく、ちゃんとした手のこんだ舟だったというから、このあたりにはちょっとした舟大工もいたのだろう。

人の出入りの多いここは、いまでいう繁華街とも名づけるべきところで、宿屋はもちろんのこと、料理屋もあり客引きもいたらしい。店といえば、いちおうそろっていたらしく、オケヤ、トウフヤ、ブリキヤ、テイテツヤ、トコヤ、カジヤ、それに五リンパンヤもあったという。なかなかいろいろなものがそろっていて、珍しいことでは、ヨーカンを売るヨーカンババア、テンプラをあげるテンプラババアなどもいたといわれている。

それに神社、お寺、駐在所もあり、芝居小屋もあったというから、ひととおり町の形態はなしていたといえるだろう。しかもここは、山間に万字炭鉱をもっていたし、当時は原木もかなり出ていたというから、なかなかのにぎわいをなしていたのだろう。

ともかく岩見沢に出るのにも、夕張にゆくのにも、どうしても通らねばならぬところであり、それを横切るようにして山間の万字炭鉱もあるということから、いわばここが十字路というところでもあった。そんなわけで、さまざまな人種が集まって、かなり物騒な町であったともいわれている。ずいぶん悪い奴も来たし、あらくれ者も来たらしい。だから駐在所の巡査などでは、おさまりのつかぬ事件がたくさんあったようだ。

こうした一種の無法地帯には、かならずそれなりの用心棒が居つくものであった。そのころ名の知れた用心棒といえば、目玉の松ちゃん、般若の松とかいったヤクザであったが、これらはそれほど大した大物ではなく、いまも住民の中に忘れられぬひととして、藤五郎あにいというのがいた。藤五郎は役者のようないい男で、きっぷもよく、その上若いのに似合わず貫祿があったといわれている。藤五郎はバクチもしたし、ひとを泣かせるような悪さもしたが、頼まれればいやといわず、殊に女や子どもには人気があった。藤五郎の男らしさが好かれたのだろう。

この宿場には、いつも何かのいざこざがあった。さきにもいったが、駐在所の巡査などでかたづくものではなかった。そんなとき、藤五郎が起用された。藤五郎が出てゆくと、それはかんたんにおさまった。泣く子もだまるというこわさである。

藤五郎の家の近くの料理屋には、藤五郎もときどきあがった。そこには女がいた。そうした女の中には、宿命を背負った若い子もいたらしい。どうしたことか、藤五郎はオシズにひかれた。おたがい熱い仲になってしまった。しかし藤五郎には女房がいた。男らしい藤五郎には分別があった。きっぱりと別れることにした。藤五郎は料理屋の主人にだまってカネを渡した。オシズを他国にやることにしたのだった。

藤五郎は、オシズには旅人の連れをつかせ、知り合いへの手紙をもたせ、旅費も与えて、こっそり夜の川を渡らせた。夕張へやることだった。

上幌橋を渡ると、橋のたもとに、ちょっとした大石がある。ひっそりと送られたオシズは、その大石の上にのびあがって、何度も藤五郎に無言のお辞儀をしたという。それが藤五郎の目には、ほのかに映ったということである。





皆さん『渡し場物語』いかがでしたか?。
次の民話は雨読橋物語です。お楽しみ下さい。

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