八千代座物語


室蘭線が開通し、停車場が建てられると、志文の市街も急に活気をおびてきました。

さらに、この街をにぎわいのあるところに変えたのは、美流渡の山奥から木材を運ぶ馬車鉄道がしかれたからでした。

人馬の往来が一段と激しくなってくると、これを目当てに、いろんな商売が進出してきます。

芝居と映画をみせる八千代座ができたのも、まもなくです。

この八千代座を建てたのは、岩見沢で大きな料理屋をやっていた杉本弥太郎という人で、百畳敷の観覧場所の広さをもつ、近代まれにみる豪華なものでした。

夕方になると、ジンタの一行がマーチを吹奏して、景気をあおります。

娯楽の少ないのと、めずらしさがあいまって、近郊からも押しかけ、金持ちの人力車もかけます。                

映画芝居の木戸銭は10銭で、下足番にはき物をあずけ、貸ぶとんが3銭、冬場は小さな火鉢を5〜6人で、一つ15銭で借ります。

湯タンポの貸し出しもあり、映画や幕間には「ええ………おせんにあんぱん」の立売りがあります。

火鉢にするめやいわしを焼いて、一ぱい、チビリチビリやりながら見物です。その頃の映画は無声ですので、映りだされた俳優の動きにあわせて活弁士が説明していきます。

2時間くらいのものを一人でするのですから、かなりの声量がないともたりましたから、週2回位の出演でも、弁士の月給は、350円位で、道庁の役人よりも良かった思います。当時の収入ランクは

一に山かせぎ

二に土方

三は大工

四は官員(役人)

といわれたほどですから、この金取りのよい労働者が、連夜、志文の市街をかっ歩したのですから、その喧そうさを知ることができます。

芝居が終り、観客が帰った後、舞台の上や下に花(祝儀)として投げられた5銭、10銭が散らかり、ホーキではき集めて、ちり取ですくい、柳ごうりに投げ入れるほどの景気の日もあったのです。

弥太郎の家族はみな病弱で、上さんも若死にし、女の子ばかりの3人姉妹も2人が亡くなり、末娘の花代と2人です。

花代は、小さい時から苦労はしていますが、絶えず愛きょうを浮かべて、暗い影がみじんも

父の弥太郎の旺盛な事業欲を助けて、掃除をしたり、木戸番をしたり、よく働くものですから若者のあこがれの的でした。

もう、年頃になりましたから、弥太郎はいずれむこを迎えたいものと思っていました。

ある年、ドサ廻りの任侠芝居の一座がやってきました。

連日拍手かっさいを受ける好評故に、長期間滞在して、興業を続けておりました。その一座の中に、正次という年若い役者がいたのです。

彼は、三枚目役に似ず、物静かな、真面目なところがあるものですから、みんなの信望もあります。

いつしか、花代はこの正次に心ひかれるものを感じるようになりました。

正次もまた、花代との語らいが、とても楽しいものとなっていました。

しかし、正次には、内地に妻子がいることを知った弥太郎は、一座の親方と話して、急に夕張の興業に移らすことにしました。

出立の汽車が鉄橋を渡る頃、花代はそっと幌向川の橋のたもとで見送っていました。

しばらく元気そうにふる舞っていた花代でしたが、結核が再発し、療養むなしく、不帰の客となったのは、旅役者との悲恋から、一年もたたずのことでした。

最愛の花代を失った弥太郎の落胆ぶりは、はた目にも気の毒なほどでしたが、この頃から万字線の建設が急ピッチで進み、馬鉄の撤去が時間の問題となり、八千代座の経営にもかげりが見え始めていました。


※八千代座のあった場所は、志文本町の現在の診療所の裏側です。
※八千代座の八は、弥太郎の弥が用いられていました。





皆さん、『八千代座物語』いかがでしたか?。
次の民話は神社物語です。お楽しみ下さい。

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