神社物語


金子という名称は、元貴族院議員金子元三郎の所有地であったからで、幌向川、幾春別川にはさまれた低位湿地帯で、ゼンマイカブ、ホロムイスゲの針金泥炭が厚い層をなし、天気が長く続いても膝までぬかる状態で、道路には「スリッパ」といって雑木や割枝を敷きつめて通行しなければなりませんでした。

作物の生育も悪く、なかなかよい収穫をあげることができません。この土質に一番適したものは稲であることに着目した小作人達が、知恵をしぼった結論は、幌向川に水源を求め、造田に踏み切ることでした。又、将来の農業経営の合理化は、畜産を加味することの重要さも考え、冷水の官林40万坪を牧野地として借りることに成功したのです。(この辺りを今でも金子の沢とよんでいます。)馬を放し、逃げない為の囲いは、ヤチダモの直径1尺2.3寸のものを6尺余りに切り、切り口に斧で一直線に割口をあけ、これにイタヤの木で造った矢を何本も次から次にかませていくと、よく割れて立派な杭ができます。

コクワの乾いたつるで3、4寸の横棒をしばりつけると頑丈な柵ができ上がります。

この放牧地の入口の小高い処に稲荷の大明神をお祀りした神社がありました。むかし、前人未踏の地に身命を賭して大自然を開拓した人々がおう盛な精神力を必要とし、その精神の支柱として、神に信仰を求めて、あちらこちらに社が設けられ、鎮守の祈願をしたのは当然でしょう。

この祠もきっと内地を出発する際に分霊をもらい受けた誰かがお祀りしたものだったのでしょうが、開墾に失敗してどこかへ行ったのか、人家の無い極めて淋しいところに、ぽつんと小さな四角の箱をふせたようにたたずんでいました。

その頃、志文の市街は、駅の設置にともなって郵便局、巡査駐在所が置かれ、宿屋、料理屋、芝居小屋が軒を並べ、開業医が往来し、商店は勿論、かじ屋、蹄鉄屋、家畜医と活気に満ちた街を形成していました。

この市街のはずれにやはり神社があり、天照大神を祀っていました。街の隆盛と開拓者の落ち着きから社殿の改築をすることになりました。そこで誰いうなく、この際、冷水の山の神社もにぎやかなところへ統合しようとの話がまとまったのです。

神社の横に宮守さんが住んでいました。みんなは「ひげ」或いは「ひげ守」とかげで呼ぶほど真白なひげを円を形造るように、目の方まではね上げて、それはみごとなものです。

そして、うす空色の裃に似せた袖なしに、だぶだぶのモンペをはいて、いつもステッキを離したことがありません。

たいして遊び場や道具の無い子供達は、この広い境内の木に登ったり、角力をとったり、かくれんぼうをする恰好の場所でしたが、この宮守の人間離れした風貌と威厳のこもった態度に圧倒されて、子供達はこの姿を見つけると、おこられもしないのに雲散霧消して木のかげにかくれます。見えなくなると又出てきて遊ぶといったあんばいでした。

いよいよ新しい社殿が完成し、今日は冷水の神社の神体を運んでくる日です。

学校帰りの一団が遠くに馬に乗ってくる宮守の姿を見つけました。「ひげを驚かせてやろう。」子供達の悪知恵は、日頃の近づきがたいうっぷんを晴らすよいチャンスです。話がすぐにまとまり道路わきの背丈以上のイタドリの中に身を沈めました。それとも知らない宮守は、例のカイゼルひげを秋風になびかせながら天を向いて近づいて来ます。 馬は鼻を大きく開き、ケツを高く上げると一足とびに走り出しました。宮守は尻から仰向けに反対側の笹やぶの中にほうり出されたのは言うまでもありません。

「こらっー。餓鬼共、はんかくさいまねするなー。神さんのバチ当たるべー。」

子ども等の耳にきんきん響きましたが、みんな手をたたいて逃げて行きました。

「ハッハッハッ、ワッハッハハ。」大笑いして起き上がった宮守の手にしっかりとご神体の風呂敷づつみがにぎられていました。「なかなか、わらべ等元気があるわい。」と口の中でつぶやくと、もう一度「ワッハッハハ。」と紫紺の空へ刺さるような声を発しましたが、もう誰の耳にも届きませんでした。



(注)
左図の柳の木は、志文小学校校庭にあった樹齢80年を越えるもので、記念樹として指定を受けていたものですが、昭和53年9月6日落雷により倒れてしまいました。
その後、金子神社も志文神社に統合し、祭礼も一緒に行っていましたが、金子には出身県から伝承された郷土芸能しし舞を保存する意味からも、神社独立の気運が再び起こり、現在地に祀られることになりました。





皆さん,『神社物語』いかがでしたか?。
次の民話は辻村農場物語です。お楽しみ下さい。」

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